2018年10月18日
最近こんなものを読みました。
イチローと大谷は顔がそっくりという意味の揶揄を掲載したMLBのSNSが、人種差別的だとアメリカで問題になったというものです。
これを読んで似たような体験をしたことを思い出しました。それは外国人講師を招いた一週間のプレイセラピーの研修で、参加者は老若男女70人くらいいたでしょうか。比較的若めのアメリカ人女性の講師が研修最終日の挨拶で、「ここにいる皆さんの顔の区別はできないけれど…」というような趣旨のことを話しました。通訳で聴いたので英語でどういう表現をしていたのかは記憶していませんが、多少違和感を覚えました。
臨床心理の専門家でそれってありなのか?、個を大事にするアメリカ人なのに?という疑問と、何より、公の場において大人として失礼な発言なのではないかと思いました。仮に皆似ているなと思ったとしても、限られた時間とはいえ個々の人の顔を把握しようと努めるのではないかなと…。また反対に、有色人種の講師が白人系アメリカ人の集団を目の前に「皆が同じように見えて区別付きませんが」と言ったらどのような反応があるのでしょうか。
講師の発言は至って無邪気な感想だと思いますし、またMLBのSNSも子どもっぽい悪ふざけの書き込みだったのかもしれませんが、「有色人種は顔の見分けがつかない」という類の発言は、今、この時代では問題であり差別なのだという意見は正にそうであると思います。
多様性を認め合うということは、単に存在を認めるということではなく、互いに礼節さをもって接するというか、リスペクトの精神を失わない、ということではないでしょうか…。表現の自由はしっかり守られるべきものですが、同時に、言及される側の立場になってものを考え、発信していく姿勢を身につけていく必要があるのでしょうね。