2025年04月09日
脇道にそれ、【break time】からの続きです。2024年のノーベル文学賞スピーチの拙訳です。「愛とは何か」とか、作家の紡ぎ出す言葉や物語というものについて考えさせられる非常に心打つスピーチだったので、趣味時間に訳してみました。翻訳家が訳したものもネット上にあるようです。
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『光と糸』 ハン・ガン
(続き)
3つめの小説、『菜食主義者』を2003年から2005年に執筆している間、私は次のような痛みを伴う質問と共にい続けた。人は完全に無垢でいられるのだろうか。どこまで深く、私たちは暴力を拒むことができるのか。人間と呼ばれる種に属することを拒絶する人には何が生じるのか。
暴力への抵抗として肉食をやめることを選び、しまいには自分は植物になったと信じて、水以外のあらゆる食べ物を拒否した『菜食主義者』の主人公ヨンヘは、自らを救おうとする努力のなかで、死期を早めるという皮肉な状況に陥ってしまう。ヨンヘと姉インヒは、実際二人は共に主人公であるが、圧倒的な悪夢と痛みのなかで声なき声を叫び、最後まで二人は一緒にいる。私は小説の最終場面を、救急車のなかに設定した。ヨンヘがこの物語のどこかで生き残ってくれることを願いながら。救急車は、緊張した姉が車窓を注意深く眺めている間、緑に燃え上がる山道を急いで下っていく。たぶん反応を待ちながら。或いは抵抗した状態で。小説全体は問いの状態のなかに存在する。睨むことと拒否すること。反応を待ちながら。
『菜食主義者』に続く小説、『The wind blows, go 風が吹く、行け』(未邦訳)は、これらの問いに続く。暴力を拒絶するために、人生と世界を拒否することは、不可能なことである。私たちは結局、植物になることはできない。では、私たちはどのように生き続けるのか。このミステリー小説で、ロマン体とイタリック体の節が押し合いへし合い、死の影と長く闘った主人公は、彼女の友人の突然の死が自殺ではないということを証明するために命を懸ける。終章を書きながら、死と破壊から這い出ようともがく彼女を描きながら、私は自分自身に次のような質問をしていた。私たちは最終的に生き残るべきではないのでは?私たちの命は、何が真実かを証明するべきではないのではないか?
5作目の小説『ギリシャ語の時間』において、私は更に押し進めた。もし私たちがこの世界に生き続けなくてはいけないなら、どんな時間がそれを可能にするのか?話せなくなった女性と、視力を失いつつある男性が、彼らの個々の道が交差するとき、静寂と暗闇のなかを歩いている。私はこの物語のなかで、触覚的な時間に関心を向けたかった。小説は静寂と暗闇のなか、女性の手が差し出され、男性の掌に幾つかの言葉が書かれていく時へと、ゆっくりとした速度で進んでいく。永遠へと拡がっていく、その発光するような時間のなかで、二人は柔らかな面を露にしていく。ここで尋ねたかった質問は次のようなことだった。人間性の最も柔らかな面を描くことによって、そこに存在する疑いようのない温かさに触れることによって、この短く暴力的な世界で私たちは結局生き続けられるのだろうか?
この疑問の答えに達したとき、私は次の本について考え始めていた。それは『ギリシャ語の時間』が刊行されて間もない、2012年の春のことであった。私は光と温かさへと向かう次のステップとなるべき小説を書こうと自分自身に言い聞かせていた。この生命や世界を抱くような作品を、明るく透明な感覚で満たしたかった。間もなくタイトルを見つけ、最初のドラフトで20ページを書いたところ、止めることを余儀なくされた。私は何かがこの小説を書くことを妨げていることを悟ったのだった。
そのときまで、光州について書くことは考えていなかった。
私の家族が1980年1月に光州を離れたとき、私は9歳で、大量虐殺が始まった約4か月前のことだった。数年後本棚に『光州写真集』のひっくり返った背表紙を見つけ、周りに大人がいなかったのでそれをパラパラと見たとき、私は12歳だった。クーデターを企てた新軍事政権に抵抗しながら、こん棒や銃剣、銃で殺された光州市民や学生たちの写真が収められていた。
生存者や死者の家族によって秘密裏に出版・発行されたので、厳しいメディア統制下で真実が歪曲されたときに、その本は真実を証明するものとなった。子どもだったので、私はこれらの写真の政治的な意味を理解していなかったが、人間についての次のような根本的な問いとして、暴行された顔たちが心に焼き付いたのだった。これは一人の人間がもう一人の人間に行った行為なのだろうか?それから、大学病院の外で献血のために長い列を成す人々の写真を見ながら、これも一人の人間がもう一人の人間のために行った行為なのだろうか。これら2つの問いはぶつかり合い、共存できない、解きほぐせない結び目のように思えたのだった。
2012年の春の日、光り輝く、人生を肯定するような小説を書こうとしながら、この解決できない問題にもう一度直面していた。私は人間に対する深い信頼の感覚を長く失っていた。それならどうやって、私は世界を抱くことができるのか。もし私が前に進もうとするならば、この不可能な難問に直面しなくてはならないと悟った。書くことがこの難問に対処し乗り越える唯一の手段であると理解した。
光州における1980年5月の出来事がその本の一つの層を形成するだろうと想像しながら、小説の構想を練ることにその年の大部分を費やした。12月に望月洞の共同墓地を訪れた。それは正午過ぎで、ちょうど前日重い雪が降っていた。日も傾き遅くなって、手を心臓近くの胸に当てがいながら、その凍るような墓地を後にしたのだった。私は自分自身に、この次の小説は、一つの層に委ねるのではなく、むしろ光州事件を真っ向から取り上げようと言い聞かせたのだった。900以上の証拠を集めた本を手に入れ、1ヶ月間毎日9時間、集められた証拠を読んだ。それから光州事件だけではなく、国家的暴力の他のケースについても読んだ。更にもっと遠くのものや過去のものについて見ながら、世界中、歴史上、繰り返し人間が犯してきた大量虐殺について読んだ。
小説を探究している間、2つの疑問がしばしば前面に出てきていた。20代半ばの頃、毎年新しい日記帳の最初のページに、これら2つの問いを書いた。
現在は過去を救えるのか。
生者は死者を救えるのか。
読み続けるうちに、これらが不可能な問いであることが明白になった。人間性の最も暗い局面との長引く出会いを通して、人間性に対する長くひびの入った私の信念の残余物が、全く粉々に破壊されるのを感じた。ほとんど小説を諦めていた。それから、ある若い夜間学校の教育者が書いた日記を読んだ。シャイで、物静かな若者、パクヨンジュンは、1980年5月の10日間に渡る暴動のさなか、光州で形成された自治市民による‘絶対的コミュニティMinjung (民衆)’に参加していた。彼は撃たれ、道庁近くのYMCAの建物内で殺された。その建物には兵士らが間もなく戻ってくるだろうと知っていたにも関わらず、彼は残ることを選んだのだった。その最後の夜、彼は日記に次のように書いた。「どうして、神様、私は、こんなにも私にチクチクと刺さり痛みを与える良心を持たなくてはいけないのでしょうか?私は生きたいのです。」
これらのセンテンスを読みながら、小説がどの方向に進むべきか、明瞭に分かったのだった。そして2つの問いは、ひっくり返させられることになった。
過去は現在を救えるのか。
死者は生者を救えるのか。
後に、『人間の行為(韓国語タイトル「少年が来る」)』になるであろうものを書いていた時、過去は確かに現在を助けていたし、死者は生者を救っていたと感じたのだった。私は時々墓地を訪れていたが、どういうわけか天気はいつも晴れ渡っていた。目を閉じると、太陽のオレンジ色の光線が瞼を満たしたものだ。それを生命それ自体の光として感じた。光と空気が表しようのない温かさで私を包み込むのを感じた。
写真集を見た後長らくあった疑問は、次のようなものだった。人間はどんなふうにして、こんなに暴力的になるのだろうか?だが同時に、人間はどんなふうにして、そのような圧倒的な暴力に抗うことができるのか?人間と呼ばれる種に属するということは何を意味するのだろうか?人間の恐ろしさと人間の尊厳、これら二つの絶壁の間に横たわる虚ろな空間を通して不可能な方法と交渉するために、私は死者の助けを必要とした。ちょうどこの小説『人間の行為』では、子どもである亡きドンホは、母を太陽に向かわせるために母の手を引くのだ。
勿論私は、死者やその遺族、生き残った者たちに起きたことを、覆すことはできなかった。私ができる最大のことは、私自身の体を通して、彼らに感覚、感情、脈動を与えることだった。小説の最初と最後でキャンドルに火を灯したいと願いながら、死体が収容され葬儀が催された市営の体育館をオープニングのシーンに設定した。そこには、死体に白いシーツを掛け、キャンドルに火を灯している15歳の亡きドンホを私たちは認める。蝋燭の炎の薄青い芯を見詰めながら。
この小説の韓国語のタイトルは、『少年が来る』である。最後の言葉‘来る’は、動詞‘来た’の現在時制 ‘来る’だ。少年は、君 として二人称で語られ、君 が親しみがあろうとそうでなかろうと、彼はほの暗い光のなか目覚め、現在へと歩いてくる。彼の一歩一歩は、精神(霊性)の一歩である。彼はずっと近くに来て、現在に至る。人間の残酷さと尊厳が究極的にパラレルに存在した時と場所が、光州として言及されている。光州、それは一つの市を指す固有名詞であることをやめ、その代わりに普通名詞となる、ということをこの小説を書きながら私は学んだ。それは時と場所を超えて、繰り返し私たちのところへやってくる。いつも現在時制で。今もそうだ。
小説がついに書き終えられ2014年春に刊行されたとき、読者たちが感じていたと告白した痛みに私は驚いた。私が執筆の間感じていた痛みと、読者たちが私に伝えてくれた苦痛がどのように関連しているか、考えるのに時間を要した。何がその苦悶の背後にあるのだろうか。それは私たちが人間性を信じたいということなのか。その信頼が揺さぶられるとき、まるで私たち自身が破壊されたかのように感じるのか。私たちは人間性を愛したいのだろうか。その愛が粉々に砕かれたとき感じる苦悶なのだろうか。愛は痛みを生じさせ、ある種の痛みは愛の証なのだろうか。
同じ年の6月、ある夢を見た。夢で、私は薄雪が舞い落ちるなか、広漠とした平原を歩いていた。平原には黒い木の切り株が何千と点在し、それら全ての切り株の後方に埋葬の跡があった。ある時点、私は水のなかに足を踏み入れ、振り返ったとき、平原の端、それを地平線と間違えていたのだが、そこから海洋が流れ込んでくるのをみとめた。どうしてこのような場所に墓々があったのか。私は訝った。海に近い低いところに埋められたあらゆる骨が、流されてしまったのではないだろうか?少なくとも今、手遅れになる前に、高いところに全ての骨を埋め直すべきではないだろうか?だけど、どうやって?シャベルさえ持っていなかった。水は既に足首まで達していた。私は目覚め、まだ暗い窓の外を眺め、この夢は何か重要なことを伝えてくれているに違いないと直感した。夢を書き留めた後、これは次の小説の始まりになるかもしれないと考えていたことを思い出す。
それがどこへ導いてくれるかという明確な考えはなかったけれども、その夢から続くかもしれないと想像した幾つかの物語の始まりを書いたり捨てたりしていることに気付いたのだった。遂に、2017年12月チェジュ島に部屋を借り、翌2年間チェジュとソウルを行き来しながら過ごすことになった。森のなか、海沿い、村の道路を歩いた。あらゆる時間、濃厚なチェジュの天候-風、光、雪、雨-を感じながら。私は小説の概要の焦点が合ってくるのを感じていた。『少年が来る』と同じように、大量虐殺の生存者の証言集を読み、その資料をしげしげと見詰め、それからできるだけ抑制されたやり方で、ほとんど言葉に置き換えるのが不可能であると感じられた残忍な詳細から目を背けることなしに、『別れを告げない』になるものを書いた。この小説は黒い木の切り株たちと押し寄せる海の夢を見た後7年近くして刊行された。
その本にとりかかりながら書き溜めたノートブックに、次のような文を書いた。
命は生きることを求めている。命は温かい。
死ぬことは冷たくなることだ。雪が降るということは、溶けるよりむしろ顔に降り積もっていくということだ。
殺すことは冷たくするということだ。
歴史上の人間と、全宇宙における人間。
風と海流。世界全体をつなげる水と空気の循環的な流れ。私たちはつながっている。私たちはつながっていることを私は祈る。
小説は3つの部分から成る。最初の部分は、話し手のキョンハが友人インソンのペット(鳥)の面倒を見るために、ソウルからチェジュの高台にあるインソンの家へ激しい雪のなかを進んでいくという、地平線の旅である。2番目の部分は、垂直の道へと続く旅である。それはキョンハとインソンを人間性の最も暗い夜へと至らしめる道のりだ。―チェジュの市民が虐殺された1948年の冬―海洋の深みへと降りていく旅だ。3番目と最後の部分は、二人が海の底のキャンドルに火を灯すという設定だ。
小説は二人の友人によって前に進められるけれども、ちょうど彼女たちがキャンドルを順番に携えていくように進むのだが、真の主人公は、キョンハとインソンの二人に関連付けられる人、インソンの母ジョンシムである。彼女は、チェジュの大量虐殺を生き延び、ちゃんとした葬儀を取り行えるように、愛する人の骨の破片を一つ一つ修復するために闘った。彼女は嘆くことを止めることを拒否する。痛みを抱え、忘却に抗う。さよならを許さない。長い間痛みで煮えくり返ってきた彼女の人生、(その痛みと)同様の濃さと温かさをもった愛に満ちた彼女の人生に関心を寄せながら、私は次のような問いを考えている。私たちはどこまで愛せるのか?私たちの愛の限界はどこにあるのか?最期まで人間であるために、私たちはどの程度まで愛さなくてはいけないのだろうか?
『別れを告げない』の韓国版が出版されて3年後、私はまだ次の小説を完成させていなかった。次の著作になると思っていた本は長らく時間がかかった。『すべての、白いものたちの』(2016)に形式的に関連する小説である。その本は、生まれてたった2時間で世を去った私の姉に束の間私の人生を捧げたいとの願いから書いたものだ。また何があろうとも、破壊できないままでいる私たちの部分を熟視したいという願いからでもあった。いつものように、いつ何が完成するかは予言できないが、私はゆっくりと書き続ける。既に書いたものを乗り越え、書き続けていく。角を回り、もはや作品たちが私の視界に無いと分かるまで。私の命が許す限りできるだけ遠くまで行く。
私は自分の作品から離れていくけれども、作品は私から独立して生き続け、彼らの運命に従って旅立っていく。あの二人の姉妹は、フロントガラスの向こう側の、緑に燃え盛る木々のように、救急車のなかでずっと一緒にいるだろう。その女性は、静寂と暗闇のなかで、その男性の掌に彼女の指で文字を書きながら、間もなく話し始めるかもしれない。誕生して2時間で亡くなった私の姉と、どうか死なないでと懇願した若かった私の母も同様だろう。これらの魂はどこまで遠く旅をするのだろうか。私の閉じた瞼の後ろにある、深いオレンジ色の光に溜まった魂たち。それらは言い表せないほどの温かい光で私を包んでくれたのではなかったか。キャンドルはどこまで遠く旅をするのだろうか。測りがたい暴力によって破壊された、あらゆる時と場所における殺人の場に光を灯してくれたキャンドルたち。決してさよならを言わない人々によって抱かれているキャンドルたち。それらは蝋燭の芯から芯へ、(人々の)心から心へ、金の糸としてつながれていくだろう。
去年の一月、古い靴箱のなかに見つけた冊子に、それは1979年4月に私が書いたものなのだが、自分に次のように問うていた。
愛はどこにあるの?
愛って、なあに?
一方、2021年の秋、『別れを告げない』が刊行されたときまで、次の2つの問いが私の核心にあるのだと考えていた。
どうして世界はこんなにも暴力的で痛みに溢れているの?
そしてまた、どうしたら世界はこんな風に美しくいられるの?
長い間、これらの問いに横たわる緊張と内的な闘いは、私の執筆活動の牽引力であったと信じてきた。最初の小説から最近の小説に至るまで心にあった数々の疑問は変化し広がり続けてきたが、これら2つの問いはずっとあり続けた。だが2,3年前、私はそうではないと疑い始めていた。私が愛について、同時に私たちに関係する痛みについて自問し始めたのは、本当に2014年の春『少年が来る』が韓国で出版されて以降だったのだろうか?初期の小説から最新のものまで、私の問いの最も深い層は、いつも愛に向かっていたのではなかっただろうか。愛は、事実、私の人生の最も古く、最も根源的な底流にあったのではなかったか。
愛は‘私の心’と呼ばれる私的な場所にあると、1979年春、子どもは書いた。(それは私のドキドキする胸のなかにある。)そして愛とは何かについて、次のような彼女の返事だった。(それは私たちの心をつなげる金の糸。)
私は書くとき、自分の身体を使う。あらゆる感覚を使う。見たり、聴いたり、匂いを嗅ぎ、味わい、優しさや温かさ、冷たさ、痛みを体験し、自分の心臓が疾走するのに気づき、私の体が食べ物や水を欲し、歩くことや走ることに気づく。肌に触れる風や雨、雪を感じ、手をつなぐことにも気づく。私は死すべき運命を負った者として、体のなかを血が駆け巡るのを感じ、これらのビビッドな感覚を私の文章に沁み込ませようとしている。まるで電流を流しているかのように。そしてこの流れが、読者へと流れていくのに気づくとき、私は驚いて心動かされる。私たちをつなぐ言葉の糸を再び体験する時々に、どのように私の疑問はその電流のような生き物を通して読者に関係していくのであろうか。その糸を通して私とつながったすべての人々、これからつながるかもしれないすべての人々に、私は心からの深い感謝の意を表明します。
Translated by Akiko Sasaki / Supervised by Pat Moriarty