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罪悪感
2012年05月31日
この分野の人なら知っている古典中の古典、小此木啓吾著(1983)『日本人の阿闍世(あじゃせ)コンプレックス』中公文庫、をただいま通勤時に読んでいます。
阿闍世コンプレックスという言葉、それほど流布していない気がします。教わるのも専らフロイトのエディプスコンプレックスばかり。(ご存じかと思いますが、エディプスコンプレックスとは、母の愛を得ようとして父の存在を消したいという欲求と、その衝動のために父の処罰を恐れる、という無意識の葛藤をいいます。)
阿闍世物語は仏教の経典に出てくる王子様(確か)の話。
あるインドの妃が王である夫の愛を失いたくないばかりに、男の子を授かりたいと願う。「ある山の仙人が3年後に亡くなると息子を授かることができる」というお告げがあったが、妃は待てずに仙人を殺してしまう。すると男子を授かる。妃は複雑な心情だ。何しろ、殺した仙人=我が子、なのだから。長じてこの出生の秘密を知った阿闍世(息子)は、母への恨みに駆られ母への殺意を抱く。ところが恐ろしい病に罹ったとき、一生懸命に看病をしてくれたのが母であった。母が恨み辛みの阿闍世を許し、献身的に看病したことで、阿闍世は母の温情に罪悪感を覚え、母の事情を知り、許すという物語。
つまりエディプスコンプレックスが父殺しだとしたら、阿闍世コンプレックスは母殺しがテーマで、母性社会である日本人の心性はこちらなのだという指摘でした。
ただし、阿闍世物語が出てくる経典は幾つかあるらしく、内容が違うものもあるのだとか。一つには、あるかどで幽閉された王(夫、阿闍世の父)を救うために毎晩自分の体に蜜を塗って会いに行く妃(母)のことを知り、阿闍世が父を殺したいと思ったという説もあります。これはいわば、エディプスコンプレックスと同じですね。
一体どちらなのか気になるところですが、古澤平作(阿闍世コンプレックスの提唱者)という精神科医が日本人の心性を仏典に求めたところに新鮮さがあるのだということです。西洋の論理で東洋人の全てが語れるはずはないからです。
阿闍世物語の真偽の程はともかく、2つの罪悪感についての考えが大変面白いと思いました。
1つめは、エディプスコンプレックスに見出されるように、父の「処罰」への罪悪感。
2つめは、阿闍世コンプレックスに見出されるように、母の「許し、受容」への罪悪感。
簡単にたとえると、子どもが万引きをしたとしましょう。そのとき、警察に捕まったり両親や先生に叱られるのではないかという罪悪感が生まれます。一方、万引きをしたとして、「今回に限り見逃してあげましょう」と母が言ったとする。すると、許されたことに対する罪悪感と甘えが生じるといいます。実は日本社会は、後者の「許しと罪悪感」が日本人の心の底、社会の底に厳然と横たわっているといいます。面白い話しでしょう?つづく…。
↑ セザンヌ展より