1. 心理 東京
  2. ブログ 心's LOOM
  3. 『キャロル(Carol)』(2015)

『キャロル(Carol)』(2015)

2016年02月12日

本日は昨日封切りの映画について。今年の米アカデミー主演・助演女優賞にノミネートされており、映画館の予告の段階から観ようと思っていた作品でした。どうしてもヒーローものよりヒロインものの方に関心が向くのは同性だからでしょうか…。ヒーローものはどうもドンパチドンパチしたもの、やられていても最後は屈強の男といったものが多く、非現実的であまり観る気にならないのです。

さて、女性同士の恋愛を描いた『キャロル』。期待以上にとても素晴らしい映画でした。同性愛の方も異性愛の方も関係なく、恋愛作品として共感できる内容だと思います。ただの恋愛ものではなく、女性の自立(自律、選択)もテーマでした。自立といってもそこにはやはり同性愛というものが絡んできます。

階級も年齢も違う二人の女性が、クリスマスシーズンにふと出逢ったことから話は進みます。富裕層のお飾り的な妻の座を捨てようとしている中年女性キャロルと、恋人はいても家族はいない孤独なデパート勤務の若い女性テレーズ。キャロルの方は元々同性愛的な sex orientation をもっている人ですが、二人は少しずつ惹かれあっていきます。

「アイゼンハワーに乾杯!」って言っているので1950年頃の話です。敗戦後の日本とは比べものにならないくらい富める国・強い国アメリカの富裕層において、当時の女性に求められる理想像は「家庭を明るく切り盛りする美しき良妻賢母」でした。そういう社会のなかで同性愛であるということは、今のアメリカよりずっと強く、アウトサイダーの立場に追いやられる深い苦悩があったのです。

キャロルは夫と幼い愛娘の共同親権を巡って争いますが、当時のアメリカでは同性愛が親権に不利な疾患として捉えられていたようです。職業柄ギョっとしてしまったシーンですが、娘に会える条件として、キャロルは高額な心理療法家の治療を受けなくてはいけなくなります。治療のシーンがあるのではなく、姑や舅のいる家族の会話の中でそれが当然のことのように語られるのです。夫の側(=社会の側)は「同性愛」を問題とし、キャロルの側は「偽りのない生き方」の問題とする、その相違が頑として根底にあるように思いました。

後は観てのお楽しみ。どのように思われるかはそれぞれの自由です。

こういう映画の後は最寄り駅で酔っ払いに会いたくないので、東京駅まで丸の内のストリートを歩きました。空気がひんやり冷たくて、ほとんど人がいなくて気持ちよかった。

丸の内ストリート.JPG

丸の内ストリート


このページの先頭へ