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認知の仕方
2012年03月15日
今日は風が強かったのですが、暖かな一日でしたね。
ここのところ、上野 修著『スピノザの世界 神あるいは自然』という本を行き帰りに読んでいまし
た。スピノザは17世紀オランダの哲学者で、『エチカ』(倫理学という意)という代表的な著書があ
ります。聞いたことのある人もいると思います。上野氏の本はそれをわかりやすく解説したものです。
わかりやすいと言っても私には難しく、一読しただけでは「はぁ…」という具合なのですが…。
その中に面白い一節がありましたので紹介します。
著者はデカルトとスピノザの2人の考えを対比させています。デカルトは「我思う、故に我在り」の
人ですね。そのデカルトが著書『情念論』のなかで取り上げている例に以下があります。
「ある人がある場所に行かなくてはいけない。行ける道は2つある。このところ強盗が出没するが、
道Aは通常、道Bよりは安全である。なので道Aを選んでいくと、強盗の被害に遭ってしまう。」
この時デカルトは、「何も嘆くことはない。あなたのその時の判断は最善のもので間違っていなかっ
た。これは神の摂理(思し召し)なのだから。」と。
一方スピノザは、同じく慰めますが、もっと考え方が違う。
「旅人にとっては端的に悪い出来事だったし、強盗にとっては端的に良い出来事だった。だけど「遭
遇」そのものは良いも悪いもない。出来事は必然的に生じたまでに過ぎない。神も誰かのために働い
ているのではない。」と。
このデカルトとスピノザ。同じ出来事に対して異なる認知の仕方をしているのですよね。
道Aと道Bの選択は象徴的なもので、私たちに身近なものならば、進路、就職など人生には無数の大小
の選択肢があります。「あの時あっちにすれば、こうはならなかったかも…」、「あの時、もっと努
力していれば…」などと考えることは誰しも一度はあるはずです。
さあ、このデカルトとスピノザ、どちらの考えのほうがあなたに「許し」をもたらしてくれるでしょ
うか?