2016年03月13日
こんな新聞記事を読みました。
それは野鳥のシジュウカラが、”鳴き声の「単語」を二つ組み合わせて「文」をつくり、その「語順」を聞き分けて意味を理解している”、という国内の研究結果が得られたというニュースでした。鳥は幾つかの鳴き声を持っていて、仲間に危険を知らせたり恋の時季には相手の気を引いたりとコミュニケーションをとっていることは知っていましたが、「構文を作る」ということの発見は画期的ではないでしょうか。
例えば、仲間を呼ぶ「ヂヂヂヂ」と危険を知らせる「ピーツピ」という2つの鳴き声の場合、「ヂヂヂヂ、ピーツピ」と「ピーツピ、ヂヂヂヂ」はシジュウカラに異なる行動を引き起こす、とのことです。(両者の意味の違い、興味のある方はネット検索でどうぞ。)
私がここで連想したのが、以前受けた精神科医の先生の講義で、「自分の人生の物語(ストーリー)のどこに punctuation (句読点)を置くかで、物語の意味は異なってくるし、人生のストーリーはその人生を終えるまで punctuation で続いていく…」というようなお話があったことでした。
ごく簡単な例で、「私は昔こんな酷い目に遭ったが、今はそれなりに幸せである。……」というのと、「私は今はそれなりに幸せである。だげど、昔こんな酷い目に遭って、……」という二つのセンテンスがあるとして、両者は大体同じことを言っています。ですが、「……」以降の流れでは、そこから展開されていく物語や付与される意味合いは当然異なってきますよね。心理臨床の狙いは「クライアントの人生のどこに punctuation を置くのかを試みながら(その人生は更にずっと流れていくものではあるのですが)、その人生の物語の再構築をはかること」であると教わりましたが、正にそうなのだと思います。
さて、シジュウカラの記事で私が面白いなと思ったのは、「人間が最も高等動物である」というのはやはりナンセンスで、現在解明されている以上にもしかしたら他の生物も punctuation を使って毎日を生きているのかもしれないなということでした。ある種の猫は時々長い時間お喋り?するときがあるのですが、これなどどう思われるでしょうか(笑)。