愛の心理

2016年06月01日

先日、一年に数度の自分へのご褒美として、またR.ワーグナーの歌劇『ローエングリン』を観てきました。休憩時間込みで5時間は長く、鑑賞後はフラフラするのですが、舞台芸術と歌と心理描写を存分に楽しんできました。私は適正な時代考証の演出が好きなのですが(例えば18世紀の物語ならその調度品や服装など)、今回のは何というかヤマギワ電気のショールームにいるような真っ白な照明が印象的な演出で、演出家には失礼ながら協賛がヤマギワじゃなかろうか…と半ば本気で思ってしまいました。

前回も感想をブログに書いたようですが、やはり数年経つ(歳をとる)と思うところも大分変化するようです。数年前は、浅はかな若気の至りの愛、のようにどこか捉えている節がありました。

歌劇『ローエングリン』は紛れもない悲劇で、色々な人物の思惑や思いが錯綜するのですが(そこは割愛)、白鳥の騎士ローエングリン(聖なる特別な力の持ち主)と純真無垢な姫エルザの悲恋です。

設定が俗世間離れしているとはいえ、古典に描かれるのは普遍的な男女の愛の心理です。こういうのを大胆且つ丁寧に切り取ってドラマに仕立て上げるところにオペラの魅力があるようにいつも思います。

騎士ローエングリンは姫エルザの危機を救って結婚をする代わりに、「自分の名前と素姓を絶対に問うてはならぬ」という固い誓いをさせます。もうここで、二人の愛の終局が簡単に予測できますね。「僕には秘密があるけれど、それは聞かないでね」と言った時点で、それは「いずれあなたは秘密を聞きたくなるだろう」と仄めかしているに等しいことだからです。ここまでは過去のブログでも紹介しました。

余談ですが、ですから本当に秘密にしておきたいことがあればその存在に言及しても匂わせてもいけないのですが、これはかなり難しいことだといえますし、また相手(この歌劇ならばエルザ側)に「否認(自分にとって不快なものを認めたくない)」の防衛機制が働く場合もあれば、真の愛から相手の秘密を不用意に詮索しない、という場合もあります。実際は、とても「否認」が多いように見受けられますが…。

さて、エルザは最初、愛と恩にかけて約束を守ると誓いますが、周囲の人間の圧力や入れ知恵から疑念は膨らみ続け、とうとう初夜に禁断の問いを発してしまいます。最終的にはかなり錯乱して、「私の想いをここまで持ち上げておいて、今度はその想いを叩き壊すのか!妻であるこの私にさえ、素姓を明かしてくれないのか」と泣き叫ぶに近い呈となります。

尤もなことと思います。この半狂乱が心にジーンと迫ってきます。

ローエングリン「心配しないでいい。私は暗黒の地からきたのではなく、光り輝く地から来たのだから」

エルザ「光る輝く地、そんなに良いところから来たのなら、尚のこといつか、私を捨ててそこへ帰ってしまうであろう」

これも尤もなことです。しんみりきます。

もうこうなると、エルザは無垢で聡明で従順な姫君というよりは、”一人の女”なのですね。

今回のドイツ人の演出家は「この作品の登場人物は、誰も成長、発展しない。誰も自分の思考を変えない。結末には希望も未来もない、というのが私の解釈です」とプログラムに書いていました。そうであるとも言える。しかし果たしてそれだけなのでしょうか。

私にはエルザが、聡明だが夢想家で頼りない娘から、実に人間らしい一人の女に成長しているように思いました。

つまりは、「夫を信頼できず、夫は何者なのかという疑念に取り憑かれた愚かな女」というのではなく、面倒臭い存在だけれども、「単に堪え忍んではいられない、自我のある一人の女」と解釈できないこともないのです。たとえ二人は結ばれることなく別離を迎え、エルザは失意のどん底に打ちひしがれるのだとしても、です。

エルザがこのような恋愛を繰り返していたら、それこそ成長、発展のない「問題」になってくるのでしょうが…。

ベージュのカーネーション carnation

※一説によれば、carn (ラテン語の肉)色から来ているとか。reincarnation(輪廻転生、再生)を想起させる花です。


このページの先頭へ