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受動から能動へ

2019年11月03日

今日は文化の日ですね。白山通り沿いの銀杏も少しずつ色づき始めました。神田神保町界隈は明日までの古本祭りと本日のカレーグランプリがあるようです。何だか色々な国のカレーが食べたくなってきました。

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さて、今日は面接室のなかで頻繁に耳にする言葉、「自分の存在意義」や「自分の存在価値」というものについて多少考えてみたいと思います。

このことに悩んでいる人がそれだけ多い証なのでしょうが、この言葉の背後には、「自分は人から必要とされているか」、「人から求められているか」、「人に愛されているか」、「ここにいていいのか」、といったことに集約されていくようで、そこには常に他者や集団の承認が存在しているように思います。

誰かに認められ、受け入れられ、愛され、必要とされ etc. の「○○される」という受動的な行為は、とても心地よく、気分も高揚し、安心感や安定感、保証を与えてくれるような気がします。事実、こういったものが全く無ければ、不安定になって生きていけないように思います。赤ちゃんや子どもは、生育期に十分な愛情や容認が必要なのは言うまでもありません。

ただ、大人になってからの他者の承認というものは、それが純粋なものなのか、利害などが絡んだ条件付きのものなのかはさておき、幾ら自分が望んでも、“他者次第”という何とも不確かなものに委ねられることになります。他者の承認=自分の存在意義であると、自分というものは非常に不安定になるか、人の顔色や社会の評価を見て動くようになり疲弊してしまうでしょう。

では一体どうしたらいいのか。「○○される」から「○○する」という能動的な行為へシフトしていくことだと思います。誰かを認め、肯定し、愛し、求め、必要とする。「能動的に生きる」という姿勢へのチェンジであり、そこに自分の存在意義を見出すようにする。

かつて、一人のクライアントさんが、ある生き物を飼いはじめ、毎日手を焼いたり世話をしていくなかで、「愛することと愛されることって、実は同じなんじゃないかと思いました」と実感をもって言われたことがありました。この頃を境に生き生きとしたエネルギーのようなものがその方から感じられるようになっていきましたが、深く考えさせられる言葉だなと今でもよく印象に残っています。

愛される人より、愛する(ことのできる)人の方が幸せなのだ、とは昔からよく言われていることですが、正にそうだと思います。

(このように書くと「モラハラ夫やDV夫のことも愛せ、愛せれば幸せということですか?」と質問される方がいますが、それは断じて違いますよね。)

 


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