2018年01月04日
明けましておめでとうございます。
本年も宜しくお願い申し上げます。
年賀状をくださった方々、どうもありがとうございました。それにしても肉筆というものが気持ちを温めてくれる時代になりました。また近況のお手紙を送って下さった方々もいらっしゃり、色々あっても元気に過ごされているのかと思うと心より嬉しく思いました。
さて、新しい一年の幕開けです。
今年は心理職制度上の大掛かりな研修などもあり何かと大変そうですが、日常の小さな楽しみを大切にしながら過ごしていきたいと願っています。
2017年12月29日
今年も無事仕事納めの日を迎えることができました。どうもありがとうございました。2018年は1月4日(木)からの営業になりますので、どうぞ宜しくお願い致します。
一年を振り返ってみて、どのようなことを思いますか。
私が学生の時、教授から教えられたこと。もう何回も言っていると思いますが、「感情の責任を取ることができるのは自分だけなのだ」ということを手を替え品を替え叩き込まれました。
例えば嫌味な人がいて嫌味の一つでも言われたとする。嫌な気持ちになりますが、その不快な感情は私のものなのです。嫌味な人が私に与えた感情ではなく、あくまでも感じたのは私自身。ですから、嫌味な人をいい人に変えることは不可能ですし、実は嫌味が自分の解釈によって歪められただけで嫌味ではなかったかもしれないですし、そうかといって一度感じた嫌味を嫌味と思わないように無理に取り消したり否定したりすることも不自然なことです。
では、どうするか。自分に生じた負の感情の扱い方・付き合い方を学ぶことはできますし、変化を生むように何らかの行動をとることはできます。
親や配偶者、上司、同僚のことなど「他の誰かのせいで自分の人生が不幸だ、生活が辛い」と長い間思っている人がいるとしたら(但し、治療のプロセスでは必要)、「変わることができるのは他の誰でもない自分なのだ」ということ、また「人にサポートを求めることができる。求めてもよい」ということを忘れないようにしてください。人生の主導権は自分にあるのですから。
2017年12月24日
最近、2005年のアメリカ映画『きみに読む物語』を観ました。感動的なラブストーリーという評判でご覧になった方は多いのかもしれまんが、その時は興味が持てず10年以上経ってからの鑑賞です。
観たというよりは見たというほうがふさわしく、美容室で髪をやってもらっている間にタブレットで見させてもらいました。髪を洗ったり席を立つたびに中断するのでしっかり見られず、しかも佳境の最中に施術が終わってしまいました。パーマに行ったんだか映画を見に行ったんだか、何とも中途半端。結局雑誌にしておけば良かったと後悔しました。
話が逸れましたがこの映画、格差恋愛ものでした。時代は1940年代。アメリカの上流階級の娘と労働者階級の青年が恋に落ちる話で、紆余曲折を経て結ばれ(おそらく)、晩年は認知症の女性(娘)と心臓病を患う男性(青年)が共に老人ホームで過ごしているという大変わかりやすい設定でした。
総じて美しい純愛ですが…。
冒頭部分でこの老いた男性が、「私は何の取柄もない男だが、一つのことだけは誇れる。それは一人の女性を生涯をかけて愛し抜いたことだ…」と独白しているところから映画は始まります。確かに本当にそうなのかもしれないけれど、陶酔型の執念深い愛ともいえないだろうか…とも意地悪く思いました(笑)
娘の母親から相当コケにされ、引き離され、青年は一人になった後、戦争から生きて帰り報奨金を貰います。その報奨金で農場を買い取り、娘が希望していたような青い窓の壮大な家を建てます。このハングリー精神まではいい。
もはや遠く手の届かないところにいる娘のことが忘れられず、でも寂しいから年増の戦争未亡人と付き合います。ある晩ベッドの上で、この女性が今度はどこそこで会いましょうだか、何々へ行きましょうだか誘うと、彼は「自分はもう愛をどこかへ置いてきてしまった…」というようなことを物憂げに言い放ちます。女性の頬に涙がツーっと流れ…。二人は寂しさを埋め合わせるために逢っているんですね。
どうしてこのシーンが気になるのかというと、普段相談室で出会う人たちはこのようなタイプの女性が少なからずいるから。自分をそれほど大切にしてくれない男性と付き合って不幸な恋愛や結婚に我慢しているタイプ。不幸だと認識できない場合も多いのですが…。好きでいるなら別にいいのですが、「なにか違う。満たされない」と思うのであるならば男は他にゴマンといるよと言いたいところ。でも、これがなかなか別れられない…。
映画の青年は一つの恋愛に固着し、どこか自己陶酔的で、一人の女性を傷つけていることには気づけない人なのだなぁ…と残念に思いました。でもそうやって人は人を傷つけることが多少なりともあって、そこから成長していくのでしょうか…。そんなことをつらつらとクリスマスイヴに思いながら、取り敢えず美容室で映画鑑賞はやめようと思います(笑)
2017年12月21日
年の瀬もいよいよ慌ただしくなってきましたね。
先日こんなニュースを見ました。
電車で席をスムーズに譲りあえるために、スマートフォンの機能を使って需要と供給を発信できるようなシステム作りを云々…、という内容でした。ご覧になった方もいますか?例えばある車内で譲ってもらいたい人がいたら何らかのシグナルを送って知らせると、スマフォに夢中で下を向いている人たちが気付き、そのなかの応えられる人が譲ることができる、ということのようです。
特段感心しませんでしたが、現在は実験段階なのか、今後普及していくのでしょうか。
最近益々よく思うのが、本当にずーっとスマフォをいじくっている人が多いこと。車内は勿論のこと、電車の乗り降り時も前の人も後ろの人のことも全く考えておらずマイペースなのです。老若男女、差はない印象。自己中心の問題ではなく、これもスマフォ依存の問題なのでしょうか。
人のことを気にし過ぎるのも問題ですが、人のことを気にしなさ過ぎるのも問題です。電車や駅はプライベート空間ではなく、あくまでも公共の場なのですから。
2017年12月14日
本格的な寒さとなってまいりましたね。
出掛けるのが億劫になってきますが、まずは体に留意して過ごしていきましょう~。
2017年12月06日
心理のお話ではありません。
さて、今週の日曜日にいきなりPCのキーボードが動かなくなりました。マウスもPCも問題はないのですが、キーを押しても文字が入力されないのでいやはや困りました。
業務を終えてからメーカーのカスタマーサービスに電話をしたところ、遠い電話でよく聞き取れないなか、スイッチが左下にあるとか、電池を交換したかとか、面倒くさそうな対応の係の人から説明を受けました。スイッチなど左下側面にも、左裏面にもないし、既に電池は交換した旨を説明していたら、ブチっと電話が不通になりました。一年間の保証サービスでこちらの製品番号や住所電話メールすべて確認済みだったので、しばらく待ちましたが音沙汰なし。
もういちどフリーダイヤルから電話してあれこれ音声ガイドに従ってやっと繋がったかと思ったら、またブチっと切れました。うん?いったい何が起きたのか?10分以上待ちましたが音沙汰なし。二度目の架電から30分後に、フリーダイヤルではない電話があったのですが、知らない番号だったので電話に出ませんでした。どうやらそれがメーカーの電話だったようです。
結局、何ともいえない消化不良のなか、キーボードをまじまじ見ていたら、右上側面に(左下ではなく)スイッチがあってそれをいじったりもう一度電池を入れなおしていたところ、文字が打てるようになりました。電源スイッチの〇とⅠの区別、皆さんはご存知でした?〇と×にしてくれたほうがよっぽど良いのに…。
まあねぇ…、ド素人の顧客の初歩の初歩の問い合わせに一々対応させられて面倒くさいのはわかるけれど、世の中、ある専門領域が成り立つのは、そうではない大多数の人々がいるという大前提があってこそなのですから。
でも、これは自分のことにも言えるはず。
例えば、心理療法家は、「無意識」という概念や言葉を意識して、またそれこそ無意識にいつも想定しながら、「無意識は行動に現れる」とか「無意識は体に現れる」などのような言葉を当然のように使うけれど、一般的にはさほど浸透していない概念なのだと日ごろから感じていました。
自分たちには、当然、常識、基本、初歩、と思っていることは、広い世界では実はそうではないのです。
とりあえず…、キーボードよ、再び動いてくれてありがとう。
2017年11月29日
白山通りの銀杏並木が美しい金色になりました。朝、地下鉄の出入り口から地上に出てくると、目の前の景色がパーッと明るくなってそれはそれは気持ちが晴れやかになります。
私の暮らす地元では11月下旬から12月が紅葉のシーズンで、休日は山々や街の橙色や赤色を堪能しています。また、昨日はオレゴン産の小さなモミの木を買ったので、それに綿花や松ぼっくり、山帰来の実をつけながらお飾りを作ったりして遊んでいました。紅葉、落葉しない常緑樹は生命力の象徴であり、樹に飾りを施して祭るというのは、本来はキリスト教と関係がないところに起源があるそうです。お正月の松も同じですね。
この時季は紅葉も常緑も楽しめる時。
画像は一緒に作った小さなリース。ツルも松ぼっくり(樹は松ではないと思いますが)も関東の山で採れたものです。リボンは100均。緑を使わなかったため地味な仕上がりですが(笑)、まあ、良しとしましょう。相談室の待合に飾ってあります。