2018年01月27日
月曜日の雪が、路地の所々に残る神保町の街です。日中も冷え込みますね。
今夜から出張に行きますので、明日はお休みになります。連絡の必要のある方はお問い合わせページよりお願い申し上げます。
今回は研修場所を間違えないようにしたいと思います(汗)三宮コンベンションセンターと三宮研修センターって、実に紛らわしい名称だと思いませんかね?
2018年01月20日
本日20日は大寒(だいかん)の日で、暦上これからが本格的な寒さに入っていく頃です。風邪やインフルエンザなどに留意しながら過ごしたいものですね。
さて、表題の traumはドイツ語の夢を意味します。外傷を意味するトラウマ(trauma)と混同しやすいのですが、トラウマの語源はギリシャ語のようです。最近私は、またフロイトの『夢判断』(Die Traum-deutung)(下)というのを夜読んでいて、読みながらそのまま自分の夢に直行し、明朝の車内であれやこれやぼんやりと考えてみる…というのをしています。
夢は自分の無意識を知るうえで一つの参考になりますし、何より営みとして楽しいのです。悪夢は辛いものですが、悪い夢=悪いこと、不吉なこと、何かの前兆、という単純なものでもありません。
学生の頃は少しだけゲシュタルト療法的な夢分析を教わりましたが、確かそれは「夢に出てくる登場人物は全て自分、もしくは自分の一部分なのだ」という前提での分析でした。父母が出てきても自分?自分の一部?わからないでもないですが、私はどちらかというとフロイトの夢判断(夢解釈)のほうが有益で面白いと思うので、こちらを参考にしています。
こんな夢をみたと夢を書いてこられる方が結構いらっしゃいますが、実は夢の内容だけをいきなり伝えられても困ってしまうのです。夢判断は、その前日か前々日あたりにどう過ごしていたか、夢に出てきたもの(モチーフ)から何を連想していくか、といった一連の作業が必要になってきます。
またカウンセラーは預言者や占い師ではありませんので、断定的に「その夢はあなたにとってかくかくしかじかである」「こういう意味をもっている」ということは言えません。夢を見た人が、唯一その解釈を進めていける人なのであって、ただそのお手伝いを私たちはできるに過ぎないのです。
それでも自己理解の一つの手段として、また「自分自身に親しみをもつ」ことの方法として夢に興味をもつことはいいことだと思います。「他者を愛せ」という他者のなかには自分が含まれるのだ、と教わりましたが、対象化した自分に向き合う、自分の心に親しみをもって接する、という態度を養うことは大切なことだと思います。
2018年01月10日
関東では松の内も終わりました。今日までかと思っていましたが 7 日だったのですね。今年はこれからぼちぼちと寒中お見舞いの準備をします。年末に年賀状準備を逸し、まあ、ゆっくりやろうと思っていたら、友人からLineがきました(笑)
年賀状ではなく年末状を書いていた人もいたので、季節のどこかでお便りを書くことにしようと悠長に構えていました。
ところで、現在かなりインフルエンザが流行っているようです。気を付けてどうにかなるものではありませんが、手洗い、うがい、マスクを徹底して乗り切りたいものですね。
2018年01月04日
明けましておめでとうございます。
本年も宜しくお願い申し上げます。
年賀状をくださった方々、どうもありがとうございました。それにしても肉筆というものが気持ちを温めてくれる時代になりました。また近況のお手紙を送って下さった方々もいらっしゃり、色々あっても元気に過ごされているのかと思うと心より嬉しく思いました。
さて、新しい一年の幕開けです。
今年は心理職制度上の大掛かりな研修などもあり何かと大変そうですが、日常の小さな楽しみを大切にしながら過ごしていきたいと願っています。
2017年12月29日
今年も無事仕事納めの日を迎えることができました。どうもありがとうございました。2018年は1月4日(木)からの営業になりますので、どうぞ宜しくお願い致します。
一年を振り返ってみて、どのようなことを思いますか。
私が学生の時、教授から教えられたこと。もう何回も言っていると思いますが、「感情の責任を取ることができるのは自分だけなのだ」ということを手を替え品を替え叩き込まれました。
例えば嫌味な人がいて嫌味の一つでも言われたとする。嫌な気持ちになりますが、その不快な感情は私のものなのです。嫌味な人が私に与えた感情ではなく、あくまでも感じたのは私自身。ですから、嫌味な人をいい人に変えることは不可能ですし、実は嫌味が自分の解釈によって歪められただけで嫌味ではなかったかもしれないですし、そうかといって一度感じた嫌味を嫌味と思わないように無理に取り消したり否定したりすることも不自然なことです。
では、どうするか。自分に生じた負の感情の扱い方・付き合い方を学ぶことはできますし、変化を生むように何らかの行動をとることはできます。
親や配偶者、上司、同僚のことなど「他の誰かのせいで自分の人生が不幸だ、生活が辛い」と長い間思っている人がいるとしたら(但し、治療のプロセスでは必要)、「変わることができるのは他の誰でもない自分なのだ」ということ、また「人にサポートを求めることができる。求めてもよい」ということを忘れないようにしてください。人生の主導権は自分にあるのですから。
2017年12月24日
最近、2005年のアメリカ映画『きみに読む物語』を観ました。感動的なラブストーリーという評判でご覧になった方は多いのかもしれまんが、その時は興味が持てず10年以上経ってからの鑑賞です。
観たというよりは見たというほうがふさわしく、美容室で髪をやってもらっている間にタブレットで見させてもらいました。髪を洗ったり席を立つたびに中断するのでしっかり見られず、しかも佳境の最中に施術が終わってしまいました。パーマに行ったんだか映画を見に行ったんだか、何とも中途半端。結局雑誌にしておけば良かったと後悔しました。
話が逸れましたがこの映画、格差恋愛ものでした。時代は1940年代。アメリカの上流階級の娘と労働者階級の青年が恋に落ちる話で、紆余曲折を経て結ばれ(おそらく)、晩年は認知症の女性(娘)と心臓病を患う男性(青年)が共に老人ホームで過ごしているという大変わかりやすい設定でした。
総じて美しい純愛ですが…。
冒頭部分でこの老いた男性が、「私は何の取柄もない男だが、一つのことだけは誇れる。それは一人の女性を生涯をかけて愛し抜いたことだ…」と独白しているところから映画は始まります。確かに本当にそうなのかもしれないけれど、陶酔型の執念深い愛ともいえないだろうか…とも意地悪く思いました(笑)
娘の母親から相当コケにされ、引き離され、青年は一人になった後、戦争から生きて帰り報奨金を貰います。その報奨金で農場を買い取り、娘が希望していたような青い窓の壮大な家を建てます。このハングリー精神まではいい。
もはや遠く手の届かないところにいる娘のことが忘れられず、でも寂しいから年増の戦争未亡人と付き合います。ある晩ベッドの上で、この女性が今度はどこそこで会いましょうだか、何々へ行きましょうだか誘うと、彼は「自分はもう愛をどこかへ置いてきてしまった…」というようなことを物憂げに言い放ちます。女性の頬に涙がツーっと流れ…。二人は寂しさを埋め合わせるために逢っているんですね。
どうしてこのシーンが気になるのかというと、普段相談室で出会う人たちはこのようなタイプの女性が少なからずいるから。自分をそれほど大切にしてくれない男性と付き合って不幸な恋愛や結婚に我慢しているタイプ。不幸だと認識できない場合も多いのですが…。好きでいるなら別にいいのですが、「なにか違う。満たされない」と思うのであるならば男は他にゴマンといるよと言いたいところ。でも、これがなかなか別れられない…。
映画の青年は一つの恋愛に固着し、どこか自己陶酔的で、一人の女性を傷つけていることには気づけない人なのだなぁ…と残念に思いました。でもそうやって人は人を傷つけることが多少なりともあって、そこから成長していくのでしょうか…。そんなことをつらつらとクリスマスイヴに思いながら、取り敢えず美容室で映画鑑賞はやめようと思います(笑)
2017年12月21日
年の瀬もいよいよ慌ただしくなってきましたね。
先日こんなニュースを見ました。
電車で席をスムーズに譲りあえるために、スマートフォンの機能を使って需要と供給を発信できるようなシステム作りを云々…、という内容でした。ご覧になった方もいますか?例えばある車内で譲ってもらいたい人がいたら何らかのシグナルを送って知らせると、スマフォに夢中で下を向いている人たちが気付き、そのなかの応えられる人が譲ることができる、ということのようです。
特段感心しませんでしたが、現在は実験段階なのか、今後普及していくのでしょうか。
最近益々よく思うのが、本当にずーっとスマフォをいじくっている人が多いこと。車内は勿論のこと、電車の乗り降り時も前の人も後ろの人のことも全く考えておらずマイペースなのです。老若男女、差はない印象。自己中心の問題ではなく、これもスマフォ依存の問題なのでしょうか。
人のことを気にし過ぎるのも問題ですが、人のことを気にしなさ過ぎるのも問題です。電車や駅はプライベート空間ではなく、あくまでも公共の場なのですから。