2018年12月02日
師走を迎えました。
一年の計は元旦にありといいますが、終わり良ければ全て良しともいいますので、今年最後の月を大事に過ごしたいなと思っています。
心理とは関係ありませんが、最近読んだ本で面白かったのが、フジコ・ヘミング著『14歳の夏休み絵日記』(2018)というものでした。フジコ・ヘミングさんは個人的に好きなピアニストですが、この本のどこに興味を持ったのかというと、それは1946年、日本で暮らす中学2年生のハーフの女の子が書いた夏休みの日記だという点でした。
1946年といえば終戦の翌年です。疎開、敗戦を経て東京に戻ってきたピアノを学ぶ女の子が、食糧や物資に苦労しながら工夫をし、母や弟と協力して生きていく日々が丁寧に描かれていて、あの時代の一人の多感な少女による記録物としても価値の高いものだと思いました。
臨床のなかでしばしば思うことは、肉親に対する様々な想いや葛藤を抱えて苦しんでいる姿をよく目にしますが、自分の父母がどういった時代を生きてきたのか、どういった生活をしてきたのかを知っている人、知ろうとする人はあまりいない、ということです。それどころではないのかもしれませんが、自分の悩みに埋没しないためにも(こういうのを自我没入といいます)、家族を視野を広げて理解してみるという態度も必要なことだと思います。
そういうわけで、最近は故人やシニア世代の書いたものなどを読むことに興味があります。この時代の人たちはどんな体験をしてきて、どのようなことを思い、感じ、生きてきたのかとか、時代の制約は一体どんなものだったのだろうとか、そんなことを思い巡らせながら2018年の暮れを過ごしています。
2018年11月25日
あっという間に11月下旬になってしまいました。
この時季は普段来室されない遠方の方が来られたり、近況のお便りをいただりして、ああ、もう年の瀬なんだなと気づかされます。お手紙は筆跡がわかるので、どういう思いでこれを書いていたのかなとか、色々想像しながら読ませていただいています。
街中の景色も変わってきました。空気が乾燥してマスク姿の方も増加。風邪に注意しつつ、ゆるゆるゆっくり~といきましょう。
2018年11月04日
昨日11月3日は文化の日でしたね。
神保町でいつも通りの日を過ごしていましたが、読みたかった本を取り寄せて合間合間に目を通していました。毎日通勤電車に揺られていると心が疲れたり荒んだりしてきます。何か優しいものが読みたいと思い手にしたのが、日野原重明 著『十歳のきみへ―九十五歳のわたしから』(2006)冨山房インターナショナル、という本でした。
命について、時間について、他の人のために時間を使うということ、遺伝や家族について、想像する力とゆるしについて等、子どもたちがどうやってこの先を生きていくべきか、優しく深く説かれていました。日野原重明さんといえば知らない方はいらっしゃらないと思いますが、肩書ではなく、経験と知恵を積んで生きてきた人から出る言葉の力にはかなわないと改めて思いました。
これからの社会を担っていく十歳の子どもたちに読んでもらいたいのは勿論のこと、実は大人が読んだほうがいいのではないかと思えるような内容でした。何か大切なものを、大人こそ忘れているような時代ではないでしょうか。
2018年10月21日
一週間も無事終わりました。ぐずついたお天気が多かったように思いますが、今朝は雲一つない晴天で清々しい気持ちになりました。通勤時、車窓の遥か向こうには雪化粧をした富士山が眺められました。
夕方になっても空は青く…、相談室の窓からの風景です。ピンボケしていますが奥の建物は日大経済学部です。(だったかな?)
話は変わりますが、このホームページのお問い合わせフォームの使い方についてお願いです。赤字の注意事項にありますように、空き状況の確認はオンラインでは受け付けておりません。幾つか空き状況を示して下さいとのお問い合わせが多々ありますが、空き状況は時間の経過と共に変動します。お電話でお問い合わせくださいますよう、宜しくお願い申し上げます。
2018年10月18日
最近こんなものを読みました。
イチローと大谷は顔がそっくりという意味の揶揄を掲載したMLBのSNSが、人種差別的だとアメリカで問題になったというものです。
これを読んで似たような体験をしたことを思い出しました。それは外国人講師を招いた一週間のプレイセラピーの研修で、参加者は老若男女70人くらいいたでしょうか。比較的若めのアメリカ人女性の講師が研修最終日の挨拶で、「ここにいる皆さんの顔の区別はできないけれど…」というような趣旨のことを話しました。通訳で聴いたので英語でどういう表現をしていたのかは記憶していませんが、多少違和感を覚えました。
臨床心理の専門家でそれってありなのか?、個を大事にするアメリカ人なのに?という疑問と、何より、公の場において大人として失礼な発言なのではないかと思いました。仮に皆似ているなと思ったとしても、限られた時間とはいえ個々の人の顔を把握しようと努めるのではないかなと…。また反対に、有色人種の講師が白人系アメリカ人の集団を目の前に「皆が同じように見えて区別付きませんが」と言ったらどのような反応があるのでしょうか。
講師の発言は至って無邪気な感想だと思いますし、またMLBのSNSも子どもっぽい悪ふざけの書き込みだったのかもしれませんが、「有色人種は顔の見分けがつかない」という類の発言は、今、この時代では問題であり差別なのだという意見は正にそうであると思います。
多様性を認め合うということは、単に存在を認めるということではなく、互いに礼節さをもって接するというか、リスペクトの精神を失わない、ということではないでしょうか…。表現の自由はしっかり守られるべきものですが、同時に、言及される側の立場になってものを考え、発信していく姿勢を身につけていく必要があるのでしょうね。
2018年10月07日
ブログの更新も滞りがちですが(書きたいことは温めています)、今年も残り3ヶ月となりました。
夏以降は大きな台風が来たり、秋雨前線やらと低気圧が多く、何となくだるい日が多いように思います。
というのは言い訳に過ぎず、本日はヘマをやらかしてしまいました。してはいけないダブルブッキング。大変ご迷惑をお掛けしました。ごめんなさい。完全に私のミス。今年残り、気を引き締めて参りたいと思います。
2018年09月14日
ブログの更新も滞り、気が付けば中秋の名月も間近となりました。今年は9月24日とのことですが、おぼえていらっしゃいますか。
秋といえば月、月といえば芒、御団子、兎…。では、月になぜ兎が住んでいるのか(どうして日本人は月面に兎を見出すのか)、ご存知でしたか?その由来を最近、ラジオの子ども向け朗読番組『お話でてこい』で知りました。(因みにこの番組、一人のおばさん(おじさん)が、猫やお姫様、いじめっ子、怪物と何でも声音を替えてやらなきゃいけないので、大変無理があって楽しいのです。)
さて、起源はインドの昔話『月とうさぎ』。このお話が大袈裟にいうならば身の毛もよだつほどスリリングというか、ええっ?やっぱりそうくるの!?というか、何だかとても怖い展開なのです。
簡単に言うと…心優しい森の動物たちがいて幸せに暮らしている。そのなかでも特にうさぎの優しさは突出しておりリーダー的存在である。ある時、神様がその動物たちを試そうと、貧しく飢えた僧侶に扮して現れた。動物たちは自分たちが仕留めた食べ物を各々差し出したが、草しか食べないうさぎは特に差し出すものがない。そこで…、せっせと枝を集め…、鍋を用意し…、鍋に火をつけ…。
後は想像力にお任せします。このお話(朗読上のお話)、救いはあるのですが、それにしても幼稚園の年少さん、4歳向けのお話です。4歳の子どもたちは、どう想像力を働かせ、何を思い、何を感じとるのか。
単純に犠牲の話で括るのも違うでしょうし、人と人との関係における何か大事なものを提起するもののように思いました。恐らく、今年の名月は違って見えることでしょうね。