2018年03月24日
3月も下旬、間もなく首都圏は桜が見頃を迎えていきますね。
さて、最近読んでいた書籍(ジョン・G・ワトキンス著2013『治療的自己』丸善出版)のなかに「エロスとタナトス」という言葉があったのですが(この言葉、人文系の人たちにとっては馴染みですね)、私はいつも春になると、ああ、エロスの時季だなぁ…としみじみと思うのです。寒さが少しずつ薄れていき、花々が咲き、木の芽が萌え出て、虫や鳥などが動き始め、生の躍動をそこここに感じるからです。
エロスというとエロティックなものを想像する人がいると思いますが、フロイトのいう性的本能に限定せず、もっと大きく「生の本能」「愛の本能」という意味で捉えています。因みにタナトスは「死の本能」という意味です。
上記文献によれば、自己とはエネルギーないしエネルギーの場であり、エロスの原理に基づいたエネルギーがリビドーで、タナトスの原理に基づいたエネルギーがモルティドーであり、「この2つのエネルギーが宇宙に存在して生物にも非生物にも働いていると仮定できる」としています。フロイト等の思想を発展させたものなのでしょうが、自己=エネルギーないしエネルギーの場、というのはなかなか面白い考えですよね。
エロスは要素同士を結合して、より複雑なものを形成する原理、つまり人や組織、社会、国家間の関係性などを作ります。タナトスは破壊や死を通して、無生物の分子や原子の状態に還元する原理なのです。
そういえば、ある日本映画の監督がこんなことを話していたのを思い出しました。その映画はある街の四姉妹の関係性と日常を描いたものだったのですが(観たことのある方は何の映画かわかるでしょうね)、監督は「長女はタナトスを担い、次女にはエロスを担わせた」というようなことを言っていたのです。
長女は看護師で死を看取る役柄であり、次女は恋愛とお酒が命のお気楽ギャルという設定でした。確かにそうかもしれない。でも果たして本当にそうなのでしょうか…。長女は建設的ではない恋愛に終止符を打ち、お世話になった人の死を経て総合病院からホスピスへ勤務先を移動し、一方次女の軽い恋愛はあっけなく終わってしまいます。私としては長女がエロス(愛の本能)で次女がタナトス(死の本能)という気がするのですが…。こういうことをあれこれ考えてみるのも面白いものです。エロスとタナトスはあざなえる縄の如し、なのでしょうね。
2018年03月11日
今日は東日本大震災から7年を迎えますね。
当時は青山の相談室に勤めていて、お昼ご飯を食べてきてPCに向かっていた時に震度5強の地震を体験しました。安全確保のため皆で外に出たら大通りが人だらけで、泣いている外国人の方も見られました。その後も大きな揺れが何度かありましたが、確かセッションがあったような気がします。東京の道も交通も麻痺しているのを知ったのは帰る頃で、遠方の私は室長の家にお世話になり翌朝いつもの倍以上の時間をかけて家に辿り着きました。
そんなことを思い出しながら、被災地の人たちの現在の暮らしぶりや色々な問題を伝えている記事を読んでいました。大震災の余波がどういうものなのか、そこに目を向けていかないと、当事者でない人はあっという間に災禍を忘れてしまいますね。
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さてお休みをいただいて行ってきた5日間の研修もどうにか無事終わりました。最初はかなり嫌々ながらの参加でしたが、噂に聞いていたものとは違っていました。新しい資格の理念や趣旨、心構え等を促すための研修であり、正直、臨床心理士との実質的な差異はあまりよくわからない内容でしたが、それなりに有意義に臨むことができました。高い研修料と長い拘束期間と講義内容のバランスで文句が出るのもわかるのですが…。
個人的に嬉しいこともありました。それは昔、2度目の大学で心理療法を学んだ教授が隣の隣の席にいらっしゃって、5日間グループワークをご一緒出来たことでした。先生の活気ある講義は大変人気があり抽選制で、毎回興味深く真剣に出席していました。2日目に学生時に受講していたことを教授にお話しすると、「なんでもっと早く言ってくれなかったの?!」と優しく握手をしてくださいました。そういうわけもあり5日間は胸をお借りし、一層学びの多い機会となったのです。
当時、心理学を勉強したいと考え抜いて入った大学で、学ぶ態度や学ぶことの大切さを初めて教えられたところでした。それまでは中学の頃から燃え尽きてしまい、最初の大学は卒業はしたものの再履ばかりの出来の悪い学生でしたから。
学ぶということは「自分がものを知らない、わかっていない」ということに気付いていくことであり、また学習や体験を通して物事の見方が広がっていき、狭い殻から自由になっていくことだと考えています。
勿論生きた学びは実生活で出来ます。というより実生活でしか出来ないかもしれません。ただ仮に今まで勉強する機会があまり無く何かアカデミックな場で学びたいと思う方がいるならば、今はオープンカレッジなどもあり一科目から誰でも受講できますよね。若者の特権ではなく、本当に学びたいときに学べるような環境がもっと整っていくといいのになと思います。
2018年02月28日
明日から3月ですね。
気温が少しずつ上がってきましたので、休日は自転車に乗ったりぶらぶら歩いたりするのが気持ちよくなってきました。
3月は第二週に5日間の大掛かりな研修があるため、7-9日の3日間は休業となります(月・火は元々の定休日です)。気乗りのしない研修なのですが資格関連の問題で必要なのです。まあ、年度替わりのこの時期に初心に返って勉強できることはある意味でいいことなのかもしれないですね。
臨床心理ではなく、精神医学の基礎、精神保健や精神福祉に関連する諸制度や法規などを学ぶのだと思います。何だか大学の基礎講義のようです。こういうふうにブログに書くのは、書くことによって重い心を鼓舞させるためなのです(笑)。
2018年02月25日
3月8日は国際女性デーということで、そのことに関連した記事を読むことが多いこの頃です。
日本は世界男女格差ランキング(経済、政治、教育、健康を指数化して比較したもの)144ヶ国中114位。この数字にはさもありなんと納得しました。
Gender gap を埋めていくにはどうしたらいいのか。このことは常に関心があるテーマですが、様々な識者の提言によると、やはり「男性の働き方」を変えていくことが大事なのだそうです。働き方が柔軟になってきているとはいえ、大半の雇用者は朝早くからラッシュに呑まれ、夜遅くまで拘束され、平日は帰って寝るだけの生活。休日が多い人、収入の多い人はまだいいと思いますが、非正規労働者であれば一定の収入を確保するために長時間ハードに働かざるを得ない。エリートで収入が多くても、長時間の労働で疲弊しているか、仕事以外の局面で無感動になっている場合も多い。
一体私たちは、いつ終わってしまうかわからない限りある人生の何割を仕事に費やさなくてはいけないのか。趣味がそのまま暮らすに足る仕事になっているような人は例外でしょう。生きていくためには働かなくてはいけないとしても、健やかな人間の生活とは一体どういうものなのか、というものを考えていく必要があります。
現在の男性たちの負荷や責任が軽減され柔軟な働き方ができるようになれば、延いては女性たち、また高齢の人たちの多様な形での社会進出がもっと進んでいくのだと思います。
2018年02月18日
一週間も無事過ぎました。
大流行のインフルエンザに注意を払っていたら、すっかり風邪を引いてしまいました。本日か明日は二十四節気の雨水(うすい)。雪から雨に変わる頃だそうですが、火曜日はまた雪マークが出ていますね。と思ったら、既に曇りマークに変わっていました。春は遠からじ…。
2018年02月11日
面白い記事を読みました。
京都の建築学科の学生たちが、1階が共同スペース、2階が人が寝られる程のスペースの5つの個室があるシェアハウスを古民家を利用して建築し、それはまるでゴリラのライフスタイルに似ているという、霊長類学者山極寿一氏の書かれた記事でした。
ゴリラは夜間樹木の上に簡単なベッドを設えるそうですが、一頭一頭のベッドの距離は相手の状態がわかる程度に保たれているそうです。1階が陸地、2階が樹上、なるほど笑えます。
人は長い進化の時のなかで、密林から草原で暮らすようになり、簡素でも障壁と屋根をもった家という構造物を必要とするようになりました。そして脳は、150人程度の集団で信頼関係を構築しながら生活することができるまでに徐々に大きくなりました。所謂「社会脳」の発達ということのようです。この脳の大きさは現在も変わらず、如何に急速な社会変化を迎え集団規模が拡大しようとも、150人程度の集団であればお互いに目が行き届いて安定した関係性を築けるようです。
ところが、高度成長期以後の家はどうなのか。巨大な団地群やマンションが登場したのはさておき、建築資材や構造からして隣人を遮断し、自然界の生物や音を遮断する密閉された空間になっている。山極先生の主張は、今回のような学生たちのプロジェクトが、孤独を避けるための新しい生き方、暮らし方の創造であってほしいというものでした。
哲学者である内田樹氏もコラムか何かにおいて、経済を優先させるならば家族よりも単身世帯を増やしたほうがずっと社会に利益を生む、ということを説いていました。単身世帯は問題解決をお金でしなくてはならない。共生より分断がお金を生むのです。家族が多く、また地域社会が生きているところであれば、分かち合いや支え合い、自助努力が生まれるからです。
人は社会的な生き物である、というのは自明の理。繋がりをどうやってつくっていくのか、ということは一番大事なことだと思います。「面倒くさい…」「煩わしい…」という声を毎日のように聴いており、その気持ちもよくわかるのですが…。居住空間としての「家」という観点から、社会というものを考えてみるのも面白いですね。
2018年02月04日
最近読んだ催眠関係の本のなかに、「暗示は10語かそれ以下で」「暗示はスローガンのように心に貼り付くべき」というフレーズがありました。確かに簡潔明瞭な言葉であれば、スッと自分の内側に入ってくる気はします。
そういえば、今話題のSNSを通じて拡散したセクシャルハラスメントに対する抗議、「#Metoo」や「Time’s up(もう終わりにしよう)」という言葉が思い出されます。アメリカのゴールデングローブ賞では、参加したほとんどの女優たちが黒のドレスを着用して抗議の意を表した、というニュースもありました。ハリウッドやエンターテイメントの世界で横行するセクシャルハラスメント及びパワーハラスメントに対する抗議と連帯の意思を表したものだそうで、印象深いスピーチなども行われました。
ハラスメントに対する姿勢は大いに共感できます。ただ、このゴールデングローブ賞の模様を眺めて、漠然とした怖さも感じました。「私は皆と同じ黒いドレスは嫌なので違う色を着たい」と思ってそのように行動したとしたら、村八分になりそうな空気だったからです。報道が黒いドレスのみを取り上げていたのか、そうではないスタイルの女優もいたのか、そこはよくわかりませんでした。何かの運動で連帯を表すために同じシャツを着るというのなら理解できるのですが、あくまでも賞の授与式においてです。
こういった抗議行動に対し、フランスの大女優カトリーヌ・ドヌーブが異論を唱えました。「男性には不器用に口説く自由もあるのだから、一概にセクハラと抗議するのもどうか。まるで魔女狩りのようだ」という内容だったかと思います。確かにそうですが、これも少々ピントがずれた発言のように思いました。
セクハラ、パワハラが問題なのは、力のある者がその力を背景に(たとえ無自覚であったとしても)、相手の感情など顧みず不快な思いをさせたり、弱い立場の者の声を封印することにあるのだと思います。口説く自由、追いかける自由というのは確かにあるけれど、そこは相手の自由を脅かさない関係であってこそ、なのではないでしょうか。
フランス流恋愛だと男女は対等にまくしたて、口説き口説かれる大人の駆け引きを楽しみ、未婚だろうか既婚だろうかそんなのおかまいなし、ドヌーブのいう性的自由はそういうものだろうという印象を抱くのですが、彼女のように揺るぎない地位を手に入れた強い女性ならともかく、果たしてそれがどの社会でも通用するものなのかどうか…。
「#Metoo」などの言葉は一気に拡散して連帯を生むのかもしれないけれども、それはあくまでもきっかけに過ぎず、Me too, 後の個々人の言葉や行動を封殺しないような、そんな社会であってほしいと願っています。一連の出来事を女性の方たちはどのように思われるでしょうか。気になるところです。