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ブログ 心's LOOM

AIあれこれ

2019年01月16日

お正月休みに家に置くタイプのAIアシスタントというものに初めて触れる機会がありました。若い人なら詳しいのでしょうが、普及率はどのくらいなのでしょうか。

声に出して話すのが気恥ずかしく馬鹿馬鹿しいと思っていたので、誰もいないときに色々試して遊んでみました。好きなラジオや音楽をかけてくれ、ニュースも電車情報も教えてくれ、朝起こしてくれもするというので、ちょっと意地悪な気持ちでAIがどこまでできるのか試してみました。

まずのっけからして名前を忘れました。名前を聞いてみたら無反応。こういう人きっといっぱいいるだろうに…。レクサスだかイクサスだかブツブツ唱えていたらアレクサで反応。こういう呼び掛け語を起動ワードというそうで、これを言わない限り話が通じないということでした。

起動ワード一つに対し、一つの質問に答えてくれるだけ。話の流れから「ありがとう!」と言っても応答なし。冷たいねぇ。ただ、お天気情報の後に少し間をおいて、また話をしてくれました。そういう風にプログラムされているのでしょう。

「アレクサ、ところであなたは何歳なの?」
「私は4歳です」大人の女の人工音声が返ってきました。

いじっていたら段々楽しくなってきたので、あれやこれやを頼んでみました。以下ダメだったもの。

「アレクサ、リスト(作曲家)の曲をかけて」
「アレクサ、オバマ大統領のスピーチを聴かせて」
「アレクサ、高橋真梨子を聴かせて」、因みに適当に言ってみた宇多田ヒカルもだめ。

リストはフランツ・リストと言えばOK。ミュージシャンは松任谷由実やカーペンターズ、トニー・ベネット、レイ・チャールズ等はOK。これらがOKだといっても、一人のアーティストの全ての曲が聴けるわけではありません。一体、どういう法則性があるのだ?と思いましたが、契約しているアマゾンがカバーしている範囲の情報であり、且つ利用者が払っている料金設定の範囲内ということらしい?別の手続きをとれば(面倒だし、有料?)入手できる情報も増えるみたいですが…。

私はこれで適当に遊んでいるのではなく、AIの未来と限界をあれやこれや考えているのです。音声一つで情報を与えてくれるのはカーナビなどには嬉しいことかもしれないし、単身世帯が増えていくなかで生活のサポートや心の慰めにもなるのかもしれない。

更に技術が進めば(私が生きているうちは大丈夫だと思うが)、心理カウンセラーなどAIカウンセラーにとって替えられるかもしれない。AI人間に表情や体温、質感、匂いなどが与えられれば、より一層人間に近づき、一人の人間より知識を蓄え、応用力を発揮し、気の利いた治療的対話ができるようになる日も来るかもしれない。

では人は何をもってAIと、プラスの意味において差異化できるのでしょうか。多分それは「歳をとること」なのかもしれません。

仮に私がAIカウンセラーの心理カウンセリングを受けることになったとしても、目の前にいるカウンセラーは歳をとらないから、相手が歳をとっていくことの変化や醍醐味をまざまざと体感することができないのです。実にあはれのない世界だと思うのですが、あなたは如何に…。

 

 

 

 


謹賀新年

2019年01月04日

年末年始休暇もあっという間に終わってしまいました。世間では月曜日からのところが多いようで、電車も神保町界隈も空いていて何とも心地の良いスタートを迎えています。

お節を作ったり初詣をしたりと普通のお正月でしたが、日頃観られないドキュメンタリーを観ることができて有意義でした。一つは1961年の名張毒ぶどう酒事件を扱った、2013年の映画『約束 名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯』。

役者陣の演技が間に入るもので死刑囚を仲代達也、その高齢の母を故樹木希林が演じており、その演技力に改めて圧倒されました。この樹木希林という人は容疑者や犯人の母親役をやらせるとピカ一だなといつも思います。

お正月早々重い作品で夜中に幾度か目が覚めてしまいましたが、冤罪か否かではなく、何が真実なのかが十分に検討、証明されることなく闇に葬り去られてしまったところに、権力の恐ろしさを見せつけられた映画でした。

若い人に観てもらいたいなと思います。決して過去の古い事件や他人事ではないと思います。happy な作品もいいけれど、集団社会の圧力や人々の心理、また権力といったものについて考えてもらいたいものです。

 

 

 


今年も一年ありがとうございました。

2018年12月27日

明後日29日で2018年の仕事納めを迎えます。
今年一年間、皆様にとって、どのような年でしたか。

振り返ってみると、今年は心理職にとって新しく制定された資格試験があったり、試験の前提となる拘束時間が長い講習会があったり、何かと慌ただしい一年でした。今後、日本という国で心理の世界がどうなっていくのかはわかりませんが、「心理臨床の世界はart。疾患を扱うのではなくて個性を扱う場なのだ」という精神は大事にしていきたいと思っています。

個性というとわかりにくいのですが、私はそれを「個人の表現」として捉えています。症状も問題行動も苦悩も、人生の途上にあるその人なりの自己表現として見てみると、柔軟な構えを失わないでいられるように思います。

そういう意味においても、来年はもっと沢山の映画を観たりオペラや音楽鑑賞をしたり静かに文学に触れる機会を持ちながら、生の深淵に向き合いたいと考えています(ただの遊びの言い訳かしらね…)

 

 

 

 


ヨコの関係

2018年12月21日

今年も残すところわずかとなってまいりました。明日は冬至ですね。そろそろインフルエンザが流行り始めたようですが、皆様、予防接種は受けられましたか。私は先日受けましたが、受けた後の腕が赤く腫れて痒くて痒くてたまりません。

さて、今日はお薦めの本、信田さよ子著『共依存』(2009)、『夫婦の関係を見て子は育つ』(2004)のお話です。『共依存』のほうは奥が深くそれなりに難しいと思いますが、後者の『夫婦の関係を見て子は育つ』は、大体日頃思っていることそのものでしたので、これはどなたにもお薦めしたいものです。

現在、配偶者や子どもがいないから私には関係ないという方も、元は親同士の間で育った子のわけですし、直接親を知らないという方も、自分を子や親の立場だけでなく、「育った環境の大人たちの人間関係はどうだったのか」といった視点から眺めてみることもできるので本書は有益であると思います。

著者は「常識を疑いなさい」ということを繰り返し述べています。巷にはびこる常識を覆し、「“子どもより夫のほうが大事”でよい」、「良妻賢母より、楽妻怠母のすすめ」、「優しい母より楽しい母であれ」、「母は自分の人生を生きなさい」等々。女性への提言ばかりで男性へはないのかと思いますが、結局のところ男性も同じこと。つまり、親と子のタテのラインではなく、まずは夫と妻というヨコのラインを対等でしっかりしたものにする必要があるということです。

これを聞いたり読むだけでアレルギー反応を起こす方もいらっしゃるでしょう。子どもができたら子どもが最優先事項なのだ、優しい母であって何が悪いと。

でもね、子どもにとって、この世に生まれ出て初めての人間関係のお手本は、目の前の「親」なのです。その男女の関係性の質が、男が偉い存在で女が従っている関係だとか、夫婦のどちらかが好き勝手をしていて片方が尻拭いをしているアンバランスな関係だとか、激しい喧嘩やいがみ合いを繰り返していたり、実態は冷め切っていて情緒的交流が薄いのに表向きは体裁を取り繕った関係であったりすると、成人して子どもは親と似たような人間関係を築くようになるものです。または親密な関係を築くこと自体から距離をとるようになります。

人は学んだことからしか事を為し得ないのです(ということは、学び直せるものなのですが)。全くもって自明の理なのに、これが案外、人に伝わらない。夫がキレてテーブルをひっくり返し妻がさっさと片付ける姿や、妻が一生懸命話しかけても夫は二つ返事で応えるという日常を子どもが見れば、男女とはそういうものなのだと学びます。

親たちが対等で楽しい関係を築いていれば、子どもの世界観は「世界は怖いものではなく、生きていくこともパートナーシップも基本は楽しくていいものなのだ」というふうに構築されるのだと思います。

こういうことを書くと、うちの夫婦関係はいびつかもしれないと心配になる方もいらっしゃるかもしれませんが、まあ、完璧な夫婦関係などあり得ないのも事実です。ですから戦々恐々としないで、失敗を恐れずに取り組んでいけばいいのだと考えています。



Diary

2018年12月02日

師走を迎えました。
一年の計は元旦にありといいますが、終わり良ければ全て良しともいいますので、今年最後の月を大事に過ごしたいなと思っています。

心理とは関係ありませんが、最近読んだ本で面白かったのが、フジコ・ヘミング著『14歳の夏休み絵日記』(2018)というものでした。フジコ・ヘミングさんは個人的に好きなピアニストですが、この本のどこに興味を持ったのかというと、それは1946年、日本で暮らす中学2年生のハーフの女の子が書いた夏休みの日記だという点でした。

1946年といえば終戦の翌年です。疎開、敗戦を経て東京に戻ってきたピアノを学ぶ女の子が、食糧や物資に苦労しながら工夫をし、母や弟と協力して生きていく日々が丁寧に描かれていて、あの時代の一人の多感な少女による記録物としても価値の高いものだと思いました。

臨床のなかでしばしば思うことは、肉親に対する様々な想いや葛藤を抱えて苦しんでいる姿をよく目にしますが、自分の父母がどういった時代を生きてきたのか、どういった生活をしてきたのかを知っている人、知ろうとする人はあまりいない、ということです。それどころではないのかもしれませんが、自分の悩みに埋没しないためにも(こういうのを自我没入といいます)、家族を視野を広げて理解してみるという態度も必要なことだと思います。

そういうわけで、最近は故人やシニア世代の書いたものなどを読むことに興味があります。この時代の人たちはどんな体験をしてきて、どのようなことを思い、感じ、生きてきたのかとか、時代の制約は一体どんなものだったのだろうとか、そんなことを思い巡らせながら2018年の暮れを過ごしています。

 

 


霜月

2018年11月25日

あっという間に11月下旬になってしまいました。

この時季は普段来室されない遠方の方が来られたり、近況のお便りをいただりして、ああ、もう年の瀬なんだなと気づかされます。お手紙は筆跡がわかるので、どういう思いでこれを書いていたのかなとか、色々想像しながら読ませていただいています。

街中の景色も変わってきました。空気が乾燥してマスク姿の方も増加。風邪に注意しつつ、ゆるゆるゆっくり~といきましょう。

Christmas tree

 

 

 


文化の日に想う

2018年11月04日

昨日11月3日は文化の日でしたね。

神保町でいつも通りの日を過ごしていましたが、読みたかった本を取り寄せて合間合間に目を通していました。毎日通勤電車に揺られていると心が疲れたり荒んだりしてきます。何か優しいものが読みたいと思い手にしたのが、日野原重明 著『十歳のきみへ―九十五歳のわたしから』(2006)冨山房インターナショナル、という本でした。

命について、時間について、他の人のために時間を使うということ、遺伝や家族について、想像する力とゆるしについて等、子どもたちがどうやってこの先を生きていくべきか、優しく深く説かれていました。日野原重明さんといえば知らない方はいらっしゃらないと思いますが、肩書ではなく、経験と知恵を積んで生きてきた人から出る言葉の力にはかなわないと改めて思いました。

これからの社会を担っていく十歳の子どもたちに読んでもらいたいのは勿論のこと、実は大人が読んだほうがいいのではないかと思えるような内容でした。何か大切なものを、大人こそ忘れているような時代ではないでしょうか。


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