2019年04月28日
いよいよ5月を迎える季節になりました。
公的には10日間のGWですが、特別どこかに出かけることなく過ごそうという方も結構いらっしゃるようですね。私もちまちま片付けなどしながら過ごし、一日くらいはハイキングにお弁当を持って行ってみようと思っています。山の中なら人にもさほど会わないでしょうし…。
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さて、今日は本のお話。
姫野カオルコ著『彼女は頭が悪いから』(2018、文芸春秋)という小説を読みました。2016年の東大生集団強制猥褻事件を基にしたフィクションで、昨年東大生の間で最も読まれた小説だそうです。
被害者である女子大生をはじめ登場人物たちの心理描写がよく書けていて感心してしまいました。著者は裁判の傍聴など取材を徹底させたとのこと、フィクションとはいえ登場人物たちの心性を見事に表現することに繋がったのではないでしょうか。登場人物のどのタイプの人も私たちの身近にいるように思いました。主人公の一人である女子大生も、今どきこんなピュアな御人好しがいるのかと思いますが、結構多いというのが実感です。
小説の随所に「心がツルンとしてピカピカしている彼(加害者ら)には、(他人の様々な意図や思いを)理解することができない」というような表現箇所が出てきます。それは人生の挫折というものを経験してこなかったせいか、他人の心の機微を読み取ったり他人の思いを慮ったりすることに著しく欠けていて、自分自身の内なる多様な声にさえ気付かない、ということを表しています。
心に襞(ひだ)が無いので、他人の思いや自分自身の感情の機微が引っ掛からない。そういうふうに見受けられる人は東大に限らず結構いるのではないでしょうか。人生の挫折をしてこなかったというよりは(大なり小なり誰でも傷つき体験はあるはずです)、小さい時からほめそやされてかしずかれて育ち、自分は優秀で人とは違う、高みに位置する人間だと自尊感情が異様に大きくなってしまったのではないでしょうか。
この作品を読むと人を育てること、教育することの目的とは一体何だろうかと考えさせられます。たとえ優秀な大学に入り優秀な頭脳をもったとしても、情愛ある交感ができない人間を育ててしまったら、そこには虚無しか残らないと思われました。
2019年04月21日
一週間無事に終わりました。
昨日は夕方から、精神科医である神田橋條治先生の研究会に初めて参加してきました。先輩方から薦められていたのですが、何というか、とても柔らかくほんわかした方で驚きました。権威ある精神科医の先生というと多少なりとも威圧的で気分に波のある人というイメージが強かったので、見事にそのイメージを覆されました。
不躾なことに何の著書にも目を通していなかったので帰ってきて早速注文しました。御歳を知って更にびっくり。74,5歳くらいかなと思っていたら80歳より上の方でした。現役で大勢の臨床家を指導している姿に圧倒されました。
2019年04月06日
もうすぐ元号が変わりますね。
私はほとんど関心がないのですが、ある学者の方が「西暦は文明、元号は文化」と表現していました。
隔世の感というか、明治生まれの人に出会える機会は皆無となりました。かつては「うちのおばあちゃんは明治の女だから」とかそんな会話がありましたね。明治の女、しっかりしていて頑固で怖いというイメージでしょうか。以前勤めていたところでは、「〇〇先生(医師)は昭和の女(ひと)だから」なんて言う人がいて、妙に納得して笑ってしまいました。言ってる側も聞く側も勿論昭和なのですが、「昭和の女(ひと)」の場合、地味できれいで聡明、という風に私は勝手にイメージしていました。
先日、仕事上の会報誌に面白い対談記事がありました。そのなかで「気質なんていうものは結構曖昧なもので、高度成長期、猛烈サラリーマンの忠誠心は武士の精神にまで遡ると言われていたけれど、明治期の男性は途中退職が多く会社が苦労していた」といったようなことが述べられていました。
ある国民の気質だとかある年代の人の特徴だとかは、目立つところや上澄みを掬って述べているに過ぎないのかもしれないと思います。「日本人は…」とか「昭和の女は…」といった話に花が咲くこと、それはその限りで面白いものですが。
そういえば国際政治学者の先生が「年代とか世代という設え(しつらえ)ものから離れ、自分なりの価値観で生きていってほしい。そうすることで他者のために何かをしよう、という働きかけが自然にできるようになる」と若者へ応援メッセージを贈っていたことを思い出しました。難しいメッセージですが、なかなかに含蓄のある言葉だと思いませんか。
2019年03月30日
花爛漫というには肌寒い日が続いており、3月終盤とは思えないくらいです。
さて、たまには本の話を。といっても手放しで推薦というわけではなく、今まで誰もやってこなかった脳科学に基づく画期的な方法という帯に釣られて買ってしまったものの、うーむ…としばし考えてしまったものです。
著者はドイツの臨床心理士で、原題は『panikattacken und andere angststörungen loswerden!』、『パニックとその他の不安障害は取り除くことができる!』という意味でしょうか。やり方は「テンセンテンス法」と「パターン・インターラプト」という二本立てです。
テンセンテンス(10の文章)法とは、「あなたにとって本当の幸せとはどういうものか」を具体的、現在形、ポジティブな形で10の文章に表し、一つの文章を五感(視・聴・嗅・味・体感)それぞれ別個に使って味わいながらイメージしていくというものです。こうすると一つの文章に付き40万個のシナプスの結合を作り出すことができ、一晩のレム睡眠の間に約120万のニューロン(神経細胞)の連結が行われ、数週間繰り返し続けていくとポジティブなネットワークが発達した脳になっていくのだそうです。
脳科学の根拠が示されていないのでどこまで本当なのかわかりませんが、私には昔からある自己教示訓練が発展したもののように思いました。そこまで画期的かと言われると、はて、どうなのでしょうか…。
「パターン・インターラプト」(パターン阻止)はちょっとユニークです。どういうことかというと、パニックや予期不安は主に自分の視覚(映像)、聴覚(考え)、身体感覚が引き起こすものなので、それらが生じたときに阻止してしまうというものです。例えば、「これから電車に乗るけれど、パニックになったらどうしよう…」と不安に思っているときに、よく自分を観察をしてみます。ある人は電車で過呼吸などパニックを起こしているところをイメージ(視覚)しているかもしれないし、ある人は「パニックが起きたらどうしよう」という思考(聴覚:つまり思考は自分の声で聴いているものです)が生じているかもしれない。またある人は胸やお腹の辺りに微かな違和感や不快感を感じているかもしれない。
次に、視覚の人の場合、「車内でパニックを起こしている」映像を脳の左右のどちら側で見ているかを捉えます(目を瞑って行うとわかりやすいそうです)。右で見ているようであればその映像を左側へ移す。すると映像が変化したり不安が軽減されていくそうです。聴覚の人の場合も同様に、ネガティブな思考をどちらの耳で聴いているか。右側で聴いているとしたらそれを左にずらす。すると思考のネガティブな影響力が減っていく。
これ、上手くいきますか?!私の場合、思考はネガティブもポジティブも右耳でしか聴いておらず、また映像も脳の真ん中で見ているので、「ずらしテクニック」は全く上手くいきませんでした。何度も本を読んでいると、人はネガティブとポジティブを左右の脳で使い分けている、という刷り込みが起きてきます(笑)
ずらしテクニックが上手くいかなくても他のものが記されているのですが、それらが斬新なアイデアかというと他の心理療法でも随所見られるものだったりするので特に真新しさはありませんでした。寧ろずらしテクニックの方が斬新でした。
著者は標準的な心理療法は不安障害に効果なしと否定していますが、そこまで言っていいものかどうかも疑問でした。パニックが起きる4つの原因というところは参考になります。待合に置いておきますので、興味のある方はご覧くださいね。
2019年03月15日
少しずつ春の陽気になってきました。
最近また映画虫が蠢き出し、時間をみつけては新旧の作品をちょこちょこと観ていました。大変話題になった『ボヘミアン・ラプソディ』、2016年米アカデミー賞を取った『ムーンライト』etc.
ボヘミアン・ラプソディ、そんなに良かったですかねぇ…。クィーンの歌(ライブシーン)は良かったけれど、ストーリー展開は先が読めてしまいました。
群を抜いて秀でたアーティストが、ナルシスティックで倒錯した世界に生き美的世界を追求しているというのは、スケールは違うもののルキノ・ビスコンティの『ルートヴィヒ』が原型のように思いました。そんなことを言うと、ビスコンティファンに怒られるかしら。因みにルートヴィヒは19世紀半ばバイエルンの「狂王」と言われた人で、芸術に狂い、恐らく誰もがカレンダーか何かで見たことのある有名なお城を建設した人です。
ある種の美は、倒錯した世界と隣り合わせなのでしょうか。私はマイケル・ジャクソンも同系列に位置すると見ているのですが。
それはさておき、それよりも静かに感動した作品が2016年の『ムーンライト』でした。主人公の学童期、ハイスクール期、成人期が3つの章でそれぞれ描かれています。
主人公は黒人で母1人子1人の家庭に育ち、繊細で内向的(学童期、ハイスクール期はいじめの対象です)、感情を表に出さず、同性愛的な傾向をもっています。アメリカ社会が抱える貧困、人種、ドラッグなどの大問題が背景にあり、主人公は被虐待児で苛酷な環境を生きているのですが、優しい大人との出会いもあり、またその人の矛盾を目の当たりにして傷つきながら、そして成人してからは自らが矛盾を抱えつつも生き抜いていく様が描かれていきます。
第3章で、薬物依存更生施設で暮らす母親が、成人した主人公に過去を謝りながら「私はクズだったけれど、あなたを愛している」「薬には手を出すな」と話す場面があります。ああ、こういう風に言える「強さ」というのは必要だなとしみじみ思いました。「私にはあなたを愛する資格がない」と言われるより、「それでもあなたを愛している」と言われたほうが、子どもは断然救われることでしょう。
格差もドラッグも虐待も海の向こうの話ではなく、日本においても身近な問題となってきています。どうぞ興味のある方はご覧くださいね。
2019年02月28日
ブログの更新も滞ったままですが、明日から3月を迎えますね。
慌ただしく過ごしていることを言い訳にして、photoのみの更新と致します。
さて、この物体は一体何でしょう?
神保町で見かけたニャンコの尻尾?
(答えは後日掲載するニュースページのphotoをご覧ください。)
2019年02月06日
節分、立春と過ぎ、寒暖差の激しい季節となりました。ご近所の境内を歩いていたら…、
冬桜を見つけました。河津桜とも違って楚々としていますね。
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さて、最近また悲しい事件がありました。子どもが虐待によって亡くなるというのは衆目を集めるところで、その都度、福祉事務所や児童相談所、学校、教育委員会などの対応が検討されていますが、それでも悲劇が繰り返されるのは何故なのだろうといつも考えてしまいます。公的機関の連携や適切な対応の在り方などは今後事件の解明と共に追究されていくと思うので、そこはしっかりと報道に目を向けつつ、市民として何ができるのだろうかということも大事だと思いました。
2000年に制定された児童虐待の防止等に関する法律(児童虐待防止法)の第6条(通告義務)というのは、憲法第25条と同じくらい、もはや誰もが覚えておくべき条項になることを望みます。第6条は簡単に言ってしまえば、虐待、虐待らしきものを見聞きした者は(誰でも)、児相(189番)や警察などへ通告しなければいけないというものです。通告した人の個人情報は保護されます。
今回の事件でも、近隣に住む人たちは父親の暴言や女子の泣き声、物音などを割と頻繁に聞いていたようでした。一般的に私たちが連絡を躊躇してしまう理由として、どうしたらいいかわからない、よそ様の家のことに口を出すことにならないか、変に騒いで虐待じゃなかったらどうしよう、逆恨みを買いたくない、密告しているような気分になって心苦しい、などの理由によると思いますが、結局は無関心、他人事、消極的といったことに帰結するのではないでしょうか。
児童問題の専門家も「疑わしきはまず通報してください。虐待かどうかはその後、専門家が判断しますので」とテレビで話していました。心に留めておきたいものです。まずは子どもの心身を守ることが先決で、それは取り返しのつかない事態になる前に養育者をも守ることになります。