2018年12月27日
明後日29日で2018年の仕事納めを迎えます。
今年一年間、皆様にとって、どのような年でしたか。
振り返ってみると、今年は心理職にとって新しく制定された資格試験があったり、試験の前提となる拘束時間が長い講習会があったり、何かと慌ただしい一年でした。今後、日本という国で心理の世界がどうなっていくのかはわかりませんが、「心理臨床の世界はart。疾患を扱うのではなくて個性を扱う場なのだ」という精神は大事にしていきたいと思っています。
個性というとわかりにくいのですが、私はそれを「個人の表現」として捉えています。症状も問題行動も苦悩も、人生の途上にあるその人なりの自己表現として見てみると、柔軟な構えを失わないでいられるように思います。
そういう意味においても、来年はもっと沢山の映画を観たりオペラや音楽鑑賞をしたり静かに文学に触れる機会を持ちながら、生の深淵に向き合いたいと考えています(ただの遊びの言い訳かしらね…)
2018年12月21日
今年も残すところわずかとなってまいりました。明日は冬至ですね。そろそろインフルエンザが流行り始めたようですが、皆様、予防接種は受けられましたか。私は先日受けましたが、受けた後の腕が赤く腫れて痒くて痒くてたまりません。
さて、今日はお薦めの本、信田さよ子著『共依存』(2009)、『夫婦の関係を見て子は育つ』(2004)のお話です。『共依存』のほうは奥が深くそれなりに難しいと思いますが、後者の『夫婦の関係を見て子は育つ』は、大体日頃思っていることそのものでしたので、これはどなたにもお薦めしたいものです。
現在、配偶者や子どもがいないから私には関係ないという方も、元は親同士の間で育った子のわけですし、直接親を知らないという方も、自分を子や親の立場だけでなく、「育った環境の大人たちの人間関係はどうだったのか」といった視点から眺めてみることもできるので本書は有益であると思います。
著者は「常識を疑いなさい」ということを繰り返し述べています。巷にはびこる常識を覆し、「“子どもより夫のほうが大事”でよい」、「良妻賢母より、楽妻怠母のすすめ」、「優しい母より楽しい母であれ」、「母は自分の人生を生きなさい」等々。女性への提言ばかりで男性へはないのかと思いますが、結局のところ男性も同じこと。つまり、親と子のタテのラインではなく、まずは夫と妻というヨコのラインを対等でしっかりしたものにする必要があるということです。
これを聞いたり読むだけでアレルギー反応を起こす方もいらっしゃるでしょう。子どもができたら子どもが最優先事項なのだ、優しい母であって何が悪いと。
でもね、子どもにとって、この世に生まれ出て初めての人間関係のお手本は、目の前の「親」なのです。その男女の関係性の質が、男が偉い存在で女が従っている関係だとか、夫婦のどちらかが好き勝手をしていて片方が尻拭いをしているアンバランスな関係だとか、激しい喧嘩やいがみ合いを繰り返していたり、実態は冷め切っていて情緒的交流が薄いのに表向きは体裁を取り繕った関係であったりすると、成人して子どもは親と似たような人間関係を築くようになるものです。または親密な関係を築くこと自体から距離をとるようになります。
人は学んだことからしか事を為し得ないのです(ということは、学び直せるものなのですが)。全くもって自明の理なのに、これが案外、人に伝わらない。夫がキレてテーブルをひっくり返し妻がさっさと片付ける姿や、妻が一生懸命話しかけても夫は二つ返事で応えるという日常を子どもが見れば、男女とはそういうものなのだと学びます。
親たちが対等で楽しい関係を築いていれば、子どもの世界観は「世界は怖いものではなく、生きていくこともパートナーシップも基本は楽しくていいものなのだ」というふうに構築されるのだと思います。
こういうことを書くと、うちの夫婦関係はいびつかもしれないと心配になる方もいらっしゃるかもしれませんが、まあ、完璧な夫婦関係などあり得ないのも事実です。ですから戦々恐々としないで、失敗を恐れずに取り組んでいけばいいのだと考えています。
2018年12月02日
師走を迎えました。
一年の計は元旦にありといいますが、終わり良ければ全て良しともいいますので、今年最後の月を大事に過ごしたいなと思っています。
心理とは関係ありませんが、最近読んだ本で面白かったのが、フジコ・ヘミング著『14歳の夏休み絵日記』(2018)というものでした。フジコ・ヘミングさんは個人的に好きなピアニストですが、この本のどこに興味を持ったのかというと、それは1946年、日本で暮らす中学2年生のハーフの女の子が書いた夏休みの日記だという点でした。
1946年といえば終戦の翌年です。疎開、敗戦を経て東京に戻ってきたピアノを学ぶ女の子が、食糧や物資に苦労しながら工夫をし、母や弟と協力して生きていく日々が丁寧に描かれていて、あの時代の一人の多感な少女による記録物としても価値の高いものだと思いました。
臨床のなかでしばしば思うことは、肉親に対する様々な想いや葛藤を抱えて苦しんでいる姿をよく目にしますが、自分の父母がどういった時代を生きてきたのか、どういった生活をしてきたのかを知っている人、知ろうとする人はあまりいない、ということです。それどころではないのかもしれませんが、自分の悩みに埋没しないためにも(こういうのを自我没入といいます)、家族を視野を広げて理解してみるという態度も必要なことだと思います。
そういうわけで、最近は故人やシニア世代の書いたものなどを読むことに興味があります。この時代の人たちはどんな体験をしてきて、どのようなことを思い、感じ、生きてきたのかとか、時代の制約は一体どんなものだったのだろうとか、そんなことを思い巡らせながら2018年の暮れを過ごしています。
2018年11月25日
あっという間に11月下旬になってしまいました。
この時季は普段来室されない遠方の方が来られたり、近況のお便りをいただりして、ああ、もう年の瀬なんだなと気づかされます。お手紙は筆跡がわかるので、どういう思いでこれを書いていたのかなとか、色々想像しながら読ませていただいています。
街中の景色も変わってきました。空気が乾燥してマスク姿の方も増加。風邪に注意しつつ、ゆるゆるゆっくり~といきましょう。
2018年11月04日
昨日11月3日は文化の日でしたね。
神保町でいつも通りの日を過ごしていましたが、読みたかった本を取り寄せて合間合間に目を通していました。毎日通勤電車に揺られていると心が疲れたり荒んだりしてきます。何か優しいものが読みたいと思い手にしたのが、日野原重明 著『十歳のきみへ―九十五歳のわたしから』(2006)冨山房インターナショナル、という本でした。
命について、時間について、他の人のために時間を使うということ、遺伝や家族について、想像する力とゆるしについて等、子どもたちがどうやってこの先を生きていくべきか、優しく深く説かれていました。日野原重明さんといえば知らない方はいらっしゃらないと思いますが、肩書ではなく、経験と知恵を積んで生きてきた人から出る言葉の力にはかなわないと改めて思いました。
これからの社会を担っていく十歳の子どもたちに読んでもらいたいのは勿論のこと、実は大人が読んだほうがいいのではないかと思えるような内容でした。何か大切なものを、大人こそ忘れているような時代ではないでしょうか。
2018年10月21日
一週間も無事終わりました。ぐずついたお天気が多かったように思いますが、今朝は雲一つない晴天で清々しい気持ちになりました。通勤時、車窓の遥か向こうには雪化粧をした富士山が眺められました。
夕方になっても空は青く…、相談室の窓からの風景です。ピンボケしていますが奥の建物は日大経済学部です。(だったかな?)
話は変わりますが、このホームページのお問い合わせフォームの使い方についてお願いです。赤字の注意事項にありますように、空き状況の確認はオンラインでは受け付けておりません。幾つか空き状況を示して下さいとのお問い合わせが多々ありますが、空き状況は時間の経過と共に変動します。お電話でお問い合わせくださいますよう、宜しくお願い申し上げます。
2018年10月18日
最近こんなものを読みました。
イチローと大谷は顔がそっくりという意味の揶揄を掲載したMLBのSNSが、人種差別的だとアメリカで問題になったというものです。
これを読んで似たような体験をしたことを思い出しました。それは外国人講師を招いた一週間のプレイセラピーの研修で、参加者は老若男女70人くらいいたでしょうか。比較的若めのアメリカ人女性の講師が研修最終日の挨拶で、「ここにいる皆さんの顔の区別はできないけれど…」というような趣旨のことを話しました。通訳で聴いたので英語でどういう表現をしていたのかは記憶していませんが、多少違和感を覚えました。
臨床心理の専門家でそれってありなのか?、個を大事にするアメリカ人なのに?という疑問と、何より、公の場において大人として失礼な発言なのではないかと思いました。仮に皆似ているなと思ったとしても、限られた時間とはいえ個々の人の顔を把握しようと努めるのではないかなと…。また反対に、有色人種の講師が白人系アメリカ人の集団を目の前に「皆が同じように見えて区別付きませんが」と言ったらどのような反応があるのでしょうか。
講師の発言は至って無邪気な感想だと思いますし、またMLBのSNSも子どもっぽい悪ふざけの書き込みだったのかもしれませんが、「有色人種は顔の見分けがつかない」という類の発言は、今、この時代では問題であり差別なのだという意見は正にそうであると思います。
多様性を認め合うということは、単に存在を認めるということではなく、互いに礼節さをもって接するというか、リスペクトの精神を失わない、ということではないでしょうか…。表現の自由はしっかり守られるべきものですが、同時に、言及される側の立場になってものを考え、発信していく姿勢を身につけていく必要があるのでしょうね。