2019年11月23日
昨日から冷たい雨が続きます。御湿りにはちょうどいいようですが寒くて参りますね。今日は面接時間の合間を縫って、クリスマスツリーを飾っていました。一種の作業療法ということでワクワクします。
さて、明日24日から30日(土)までお休みになります。御不便をおかけしますが、御連絡のある方は12月1日(日)よりお願い申し上げます。
2019年11月15日
最近の新聞記事に次のようなものがありました。
イギリスのケンブリッジ大学が、「夫婦関係がよくない妻(母親)は、男の赤ちゃんに多く話す傾向がある」ということを調査研究で明らかにし、家族心理学のジャーナルに発表したとありました。女の赤ちゃんに対してはそのような傾向は見られず、一方、夫(父親)の場合は、夫婦関係の良し悪しは赤ちゃんとの会話量に関係はなく、そもそも妻より会話量が少ない、とのことでした。
本来、夫との間で満たされるべきものを、夫と同性の息子への会話で満たすという補償行為は、当然のことを言っているようにも思うのですが、この研究のポイントは「母親の男女の赤ちゃんに対する態度の差」と、夫婦の行動の違いというところでしょうか…。
子どもが成長してきて言葉を話せるようになると性別は関係なくなるように思うのですが、実際のところはどうなのでしょうね。母親が夫や夫側の親族の不満や愚痴を子どもたちにしょっちゅう話す、というのは日々とてもよく聞く話です。同性の女の子にばかり愚痴を話すものだという風に以前は理解していましたが、どうも男の子たちもその役割を担わされているようです。
子どもを愚痴の相手や手っ取り早いカウンセラーにするのはよくありませんが、母親も話す相手が身近にいなくて寂しいのでしょうね。
これは余談ですが、私はいつも下のピカソの絵『聖母子像』を観ると、背筋が少しぞっとします。お母さんの満足そうな表情なのに対し、赤ちゃんはちょっと寂しそうというか、凍ったようというか、母に取り込まれている印象がするのです。
2019年11月03日
今日は文化の日ですね。白山通り沿いの銀杏も少しずつ色づき始めました。神田神保町界隈は明日までの古本祭りと本日のカレーグランプリがあるようです。何だか色々な国のカレーが食べたくなってきました。
*****
さて、今日は面接室のなかで頻繁に耳にする言葉、「自分の存在意義」や「自分の存在価値」というものについて多少考えてみたいと思います。
このことに悩んでいる人がそれだけ多い証なのでしょうが、この言葉の背後には、「自分は人から必要とされているか」、「人から求められているか」、「人に愛されているか」、「ここにいていいのか」、といったことに集約されていくようで、そこには常に他者や集団の承認が存在しているように思います。
誰かに認められ、受け入れられ、愛され、必要とされ etc. の「○○される」という受動的な行為は、とても心地よく、気分も高揚し、安心感や安定感、保証を与えてくれるような気がします。事実、こういったものが全く無ければ、不安定になって生きていけないように思います。赤ちゃんや子どもは、生育期に十分な愛情や容認が必要なのは言うまでもありません。
ただ、大人になってからの他者の承認というものは、それが純粋なものなのか、利害などが絡んだ条件付きのものなのかはさておき、幾ら自分が望んでも、“他者次第”という何とも不確かなものに委ねられることになります。他者の承認=自分の存在意義であると、自分というものは非常に不安定になるか、人の顔色や社会の評価を見て動くようになり疲弊してしまうでしょう。
では一体どうしたらいいのか。「○○される」から「○○する」という能動的な行為へシフトしていくことだと思います。誰かを認め、肯定し、愛し、求め、必要とする。「能動的に生きる」という姿勢へのチェンジであり、そこに自分の存在意義を見出すようにする。
かつて、一人のクライアントさんが、ある生き物を飼いはじめ、毎日手を焼いたり世話をしていくなかで、「愛することと愛されることって、実は同じなんじゃないかと思いました」と実感をもって言われたことがありました。この頃を境に生き生きとしたエネルギーのようなものがその方から感じられるようになっていきましたが、深く考えさせられる言葉だなと今でもよく印象に残っています。
愛される人より、愛する(ことのできる)人の方が幸せなのだ、とは昔からよく言われていることですが、正にそうだと思います。
(このように書くと「モラハラ夫やDV夫のことも愛せ、愛せれば幸せということですか?」と質問される方がいますが、それは断じて違いますよね。)
2019年10月20日
所用があって山下埠頭、公園辺りを少し歩きました。幼稚園の時からしばしば絵を描きに来ていましたが、幼くても歳を経ても港を眺めるといつも新鮮な開放的な気持ちになります。旅立ちというか、出発というか、そんなイメージが湧いてきます。
自分の人生を見つめなおし、人生や仕事の選択をして(選択せざるを得ないとしても)、新たな局面を迎えようとする人に接していると、応援の気持ちと共に、大なり小なり出港のイメージが湧いてきて、いい意味で羨ましい気持ちになります。
仕事においては私も考えないといけない時になっているような気がしています。こちらは公的な医療機関などではなく、あくまでも小さな私設相談室なのでキャパは小さく、したがって環境整備か反対にダウンサイジングなどが必要だなと考えています。環境整備だとしたらどうしようかな…などと今はそのことを楽しみながら練っています。
2019年10月11日
さすがに10月は来ないだろうと思っていたら、また大型の台風ですね。本日のJRや東京メトロの発表をもって判断し、12日(土)は休業といたします。
台風に備えたり、家でできることをしたいと思っています。大雨や暴風は小さなお子さんやペット、お体の不自由な方など、怖くて動揺してしまうこともあるかと思います。どうぞ周りの方が目をかけてあげてください。皆様も十分お気を付けくださいね。
2019年09月26日
今秋には興味を掻き立てられる映画が幾つか始まりそうでワクワクしていますが、先日家で観た『ボブという名の猫 幸せのハイタッチ』(2016 イギリス)は、久しぶりに動物ものでいい作品でした。動物ものって単純に楽しめますが結構外すでしょ?
原題は『a street cat named Bob』。ストリートミュージシャンでホームレス、薬物依存の青年と街猫(野良猫)のボブが主人公で、一人と一匹がやがて無二の親友になっていく実話に基づいた物語です。実話の猫のボブが映画出演もしているそうで、こんなに公共の場に慣れている猫はいるのだろうかと目を疑いますが、人の肩に乗って移動する猫は知っているのでボブのような類稀な性格の子もいるのだと思いました。
一種のサクセスストーリーなのかもしれませんが、ロンドン社会のひずみに生きる若者たちのもがき苦しみや成長が描かれていると思いました。更生施設を経て薬物問題から立ち直ろうにも、職が無い、家がない、薬仲間も多い劣悪な環境に身を置かざるを得ない状況では、負の循環でまた薬物に手を出してしまいます。青年は一人のソーシャルワーカーの奔走で何とか共同住宅の一室を得て、紆余曲折を経て薬物を断つことを決意し成功します。
イギリス社会の薬物問題の治療の仕組みや方法を知ることもできます。薬物代替療法(メサドン療法)のために、患者は毎日最寄りの薬局に行って麻薬に代わるメサドン液剤を経口投与されます。ただ、いつかはこのメサドンを断つ必要があり、壮絶な禁断症状と闘わなくてはいけなくなります。
映画では薬物の過剰摂取から街中で命を落としていく仲間もいて、現実は甘くはないことを突き付けられます。人間たちの悲喜こもごもを見つめるボブの淡々とした涼しげな眼差しや表情、丸ごとの存在感が、陰湿になりがちな映画に希望を添えてくれています。
2019年09月14日
秋の気配を少しずつ感じるようになってきました。例年になく恐ろしかった台風の後の処理も落ち着き、夜間安眠できるようになってきましたが、千葉では依然停電や断水状態の地域があるとのこと、再建が早く進むことを祈るばかりです。
さて、今日は全く心理に関係のない旅のお話。
先日、中学の修学旅行ぶりに法隆寺を訪ねる機会に恵まれました。当時体調を崩しながら長閑な斑鳩の里を歩いたことと、それでも整然と美しく落ち着いた法隆寺に(というよりも奈良の寺々や古墳など全体に)深く感動したことを憶えており、いつかまた行きたいと思っていました。飛鳥時代、奈良時代というのは何故か浪漫を感じますよね。
改めて足を踏み入れると、こんなに大きかったのだろうかと壮大な伽藍でした。
一通り回り宝物館へ行くと、中から読経が聞こえてきました。粋な?無粋な?演出で音声でも流しているのかと思っていたら、そこには本当に僧侶がいて読経し、他にも関係者の方々がいてガヤガヤしているではないですか。
どういうことかというと、夢違観音像と7歳の聖徳太子像を大英博物館へ移送するため梱包準備が始まろうとしていた丁度そのときでした。「しばらく展示はレプリカになってしまうのでよーく観ておいてください」と係の方に告げられました。
こういうのって休館日や夜間に行われるものだと思っていましたが、地方だし平日だし昼ひなかにあるのですねぇ。夢違観音様も聖徳太子も遥か遠いロンドンまで長期出張、その直前に一瞬でも会えたことは良かったなぁ…と思いました。またいつ会えるかわからないし、もう会えないかもしれない。人も仏像も一期一会ですし。
因みにかの有名な百済観音像を観たときには、その柔和な人間離れした8頭身の佇まいにただただ心を強く揺さぶられ涙が出そうになりました。中学の時には恐らく素通りしていたでしょう。
法隆寺をめぐっては、連れて行ってくれた友人から不思議な話を聞いてもいました。それはご家族の方の体験ですが、約束でもしなければ到底そこでは会わないような人と偶然法隆寺で出会ったというお話でした。
たまには古い時代の歴史的建造物や遺跡、遺構などに触れてみるのはこの時代に大切なことなのかもしれません。しっかりと地に脚が着く、そんな感覚を体の底の方から味わうことができました。