2020年01月15日
今年は鼠年で十二支の最初の年です。
ジェノグラム(家族歴)をお聴きするときに、親の年齢(生年)を知らない人が少なからずいて、そういう場合十二支を知っているかお聴きしますが、それも知らない方がいらっしゃって結構驚きます。世代によっては十二支が既に身近なものではないのでしょうね。因みに家族歴をうかがうのは背景を知るための情報収集という意味だけではなく、家族間のコミュニケーションの有無や質、世代間の歴史、その人の資源はどういったものか、などの探求の端緒となり得るからです。
さて、お休みに観たかった映画、是枝裕和監督の『真実』(2019)を観てきました。普遍的なテーマである母娘関係を扱った映画というよりも、大女優の母と脚本家の娘の関係を描いたフランス人の映画、という印象を持ちました。母役カトリーヌ・ドヌーヴの礼賛映画のようでもありました。こんな手段を選ばない野心的な母は困りものですが、実際、貫禄があって優雅で美しかった。年齢と貫禄と美が共存するところが、日本人女性には見られないところですよね。ドヌーヴが飼い犬と中華料理屋に入って一人食事をするシーンがありますが、そこでアジア系の高齢女性が家族に祝われながら食事をしている様子が対比的に描かれています。
ドヌーヴは「これはフランス映画ではない」と言っていました。仮にフランス人監督が来日して日本の俳優陣を使って映画を撮っても、それが日本映画だとは恐らく言えないように『真実』がフランス映画でないことは確かですが、かといって日本映画でもない不思議な作品でした。何故ならこんな日本人は恐らくいないでしょう。
登場人物たちは、なんと「個」が確立されているのでしょうか!そうでなければ冗談でも母娘間でセクシャルなきわどい話はできないし、家族や身内間で露骨な嫌味を言われたら関係性に微妙なヒビが入って距離を置きそうなのが日本社会ですが、逃げないでしっかりと言葉で向き合う。母も娘も母のパートナーも娘婿も秘書もしかり。そこからまた新たな関係性が生まれてくる。
フランス映画でも日本映画でもないとしても、このコミュニケーションはなかなかに面白いものだなと思いました。まだ未見の方はどうぞご覧くださいね。
2019年12月29日
今年も御蔭様で仕事納めの日を穏やかに迎えることができました。一年間どうもありがとうございました。
年末年始のお休みは家事や片付けをしながら静かに今年を振り返り、また新年の計画をゆるやかに立てようかなと思っています。
きっと東京は7月のオリンピックに向けてお祭りムードで盛り上がっていくのでしょうが、街の一隅には冷めた場所があってもいいのではないか、社会の喧騒から離れた落ち着いた相談室でありたいと思います。実際のところ、街の空気や公共交通機関等がどうなるのか想像もつきませんね…。
新年は1月4日からのスタートになります。どうぞ宜しくお願い申し上げます。
2019年12月15日
2019年もあと半月になりました。
今年の振り返りや来年度の目標などそろそろ取り組もうかなと思っていましたが…。
読み始めた本で面白いものがあったのでここにご紹介します。それは、磯野真穂著『ダイエット幻想 やせること、愛されること』(2019、ちくまプリマ―新書)、です。著者は文化人類学、医療人類学の学者です。文化人類学の視点を盛り込みながら、私たちの価値観がいかに自分が属する社会から取り込まれたものであるかを教えてくれています。その取り込みは恐ろしいくらいのパワーがあるので、目が開かれますよ。
日本社会が、いかに「痩せていることを良し」とする社会なのか。また容貌の「いけているか、いけていないか」を気にする社会なのか。通勤電車の広告は、エステやジム、化粧品の類がなんと多いことか。
女性向けに書かれた本ですが、今は男性も承認欲求の強い人が多いので、承認欲求をキーワードに男性の方々も読んでみることをお薦めします。
読んだらお分かりいただけるかと思いますが、2020年は、「女の子」ではなく「大人の女の人」が日本の社会に着実に増えていくことを切に願っています。
2019年11月23日
昨日から冷たい雨が続きます。御湿りにはちょうどいいようですが寒くて参りますね。今日は面接時間の合間を縫って、クリスマスツリーを飾っていました。一種の作業療法ということでワクワクします。
さて、明日24日から30日(土)までお休みになります。御不便をおかけしますが、御連絡のある方は12月1日(日)よりお願い申し上げます。
2019年11月15日
最近の新聞記事に次のようなものがありました。
イギリスのケンブリッジ大学が、「夫婦関係がよくない妻(母親)は、男の赤ちゃんに多く話す傾向がある」ということを調査研究で明らかにし、家族心理学のジャーナルに発表したとありました。女の赤ちゃんに対してはそのような傾向は見られず、一方、夫(父親)の場合は、夫婦関係の良し悪しは赤ちゃんとの会話量に関係はなく、そもそも妻より会話量が少ない、とのことでした。
本来、夫との間で満たされるべきものを、夫と同性の息子への会話で満たすという補償行為は、当然のことを言っているようにも思うのですが、この研究のポイントは「母親の男女の赤ちゃんに対する態度の差」と、夫婦の行動の違いというところでしょうか…。
子どもが成長してきて言葉を話せるようになると性別は関係なくなるように思うのですが、実際のところはどうなのでしょうね。母親が夫や夫側の親族の不満や愚痴を子どもたちにしょっちゅう話す、というのは日々とてもよく聞く話です。同性の女の子にばかり愚痴を話すものだという風に以前は理解していましたが、どうも男の子たちもその役割を担わされているようです。
子どもを愚痴の相手や手っ取り早いカウンセラーにするのはよくありませんが、母親も話す相手が身近にいなくて寂しいのでしょうね。
これは余談ですが、私はいつも下のピカソの絵『聖母子像』を観ると、背筋が少しぞっとします。お母さんの満足そうな表情なのに対し、赤ちゃんはちょっと寂しそうというか、凍ったようというか、母に取り込まれている印象がするのです。
2019年11月03日
今日は文化の日ですね。白山通り沿いの銀杏も少しずつ色づき始めました。神田神保町界隈は明日までの古本祭りと本日のカレーグランプリがあるようです。何だか色々な国のカレーが食べたくなってきました。
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さて、今日は面接室のなかで頻繁に耳にする言葉、「自分の存在意義」や「自分の存在価値」というものについて多少考えてみたいと思います。
このことに悩んでいる人がそれだけ多い証なのでしょうが、この言葉の背後には、「自分は人から必要とされているか」、「人から求められているか」、「人に愛されているか」、「ここにいていいのか」、といったことに集約されていくようで、そこには常に他者や集団の承認が存在しているように思います。
誰かに認められ、受け入れられ、愛され、必要とされ etc. の「○○される」という受動的な行為は、とても心地よく、気分も高揚し、安心感や安定感、保証を与えてくれるような気がします。事実、こういったものが全く無ければ、不安定になって生きていけないように思います。赤ちゃんや子どもは、生育期に十分な愛情や容認が必要なのは言うまでもありません。
ただ、大人になってからの他者の承認というものは、それが純粋なものなのか、利害などが絡んだ条件付きのものなのかはさておき、幾ら自分が望んでも、“他者次第”という何とも不確かなものに委ねられることになります。他者の承認=自分の存在意義であると、自分というものは非常に不安定になるか、人の顔色や社会の評価を見て動くようになり疲弊してしまうでしょう。
では一体どうしたらいいのか。「○○される」から「○○する」という能動的な行為へシフトしていくことだと思います。誰かを認め、肯定し、愛し、求め、必要とする。「能動的に生きる」という姿勢へのチェンジであり、そこに自分の存在意義を見出すようにする。
かつて、一人のクライアントさんが、ある生き物を飼いはじめ、毎日手を焼いたり世話をしていくなかで、「愛することと愛されることって、実は同じなんじゃないかと思いました」と実感をもって言われたことがありました。この頃を境に生き生きとしたエネルギーのようなものがその方から感じられるようになっていきましたが、深く考えさせられる言葉だなと今でもよく印象に残っています。
愛される人より、愛する(ことのできる)人の方が幸せなのだ、とは昔からよく言われていることですが、正にそうだと思います。
(このように書くと「モラハラ夫やDV夫のことも愛せ、愛せれば幸せということですか?」と質問される方がいますが、それは断じて違いますよね。)
2019年10月20日
所用があって山下埠頭、公園辺りを少し歩きました。幼稚園の時からしばしば絵を描きに来ていましたが、幼くても歳を経ても港を眺めるといつも新鮮な開放的な気持ちになります。旅立ちというか、出発というか、そんなイメージが湧いてきます。
自分の人生を見つめなおし、人生や仕事の選択をして(選択せざるを得ないとしても)、新たな局面を迎えようとする人に接していると、応援の気持ちと共に、大なり小なり出港のイメージが湧いてきて、いい意味で羨ましい気持ちになります。
仕事においては私も考えないといけない時になっているような気がしています。こちらは公的な医療機関などではなく、あくまでも小さな私設相談室なのでキャパは小さく、したがって環境整備か反対にダウンサイジングなどが必要だなと考えています。環境整備だとしたらどうしようかな…などと今はそのことを楽しみながら練っています。