2016年06月19日
ここのところの通勤には、軽めの読み物ということで、動物学者の山根明弘氏が一般読者向けに書いた『ねこはすごい』(2016,朝日新書)というものを読んでいます。
リビヤ山猫を先祖とする現在の猫の身体能力や感覚力について書いているのですが、そのなかに雄猫の子育てについての描写もあり面白いなと思いました。家庭で飼われている雄猫は「イクニャン」になることもあるし、またある島のフィールドワークによれば、野良猫社会の雄猫も1歳未満の仔猫に対し(自分の血縁以外の仔猫に対しても)自分より先にエサを食べさせるのだそうです。これはネコ科のライオン社会には見られない行動だそうで、ライオンは力(体の大きさや年長)のある雄からエサを食べるとのことでした。
家庭の雄猫が子育てをすることがあるのは知られた話ですが、私がかつて飼っていた雄猫も、自分の子ではない、家で産まれた4匹の仔猫の世話をそれはそれは甲斐甲斐しくみていました。これは観察していてかなり楽しかったです。最初その雄猫は、仔猫たちの方を意識して見ないようにしていました。絶対に目を合わせないし、ミャア…ミャア…いう鳴き声にも意識して反応しないようにしていました。怖かったのでしょうか。
やがて仔猫の行動範囲が広がって雄猫にまとわりつけるようになると、雄猫は率先して仔猫たちの毛繕いや遊び相手、また寝るときは常に自分の傍に仔猫たちを咥えて運んできていました。この時の仔猫の全長は15cm未満、女性の掌サイズくらいです。
初めは雄猫が仔猫を襲うのではないかと相当心配でしたが、母性が?目覚めたようでしっかりとイクニャンになっていったのです。反対に母猫は自由にのびのびと育児放棄していきました(笑)。
猫話になってしまいましたが、これはちょっとした示唆を与えてくれるような気がするのです。それは猫も野良猫集団では雄の子育てまでは期待できない。けれども狭い家庭の中では子育てをする場合も生じる。ということは、猫も本能だけで生きているのではなく、様々な環境に影響され適応していく生き物だということですよね。
ということは、何をいいたいのか。
つまりは人も環境に影響され適応していく生き物なので、男性の子育てや家事(毎日の家事の切り盛り全般をすること)も当たり前になり、「イクメン」などという言葉が無くなる時代を所望することも夢ではないように思えてくるのでした。それを望まない人たちもいるのでしょうが…。
2016年06月15日
最近、目の保養に、『私は虫である』熊田千佳慕の言葉(2010)求龍堂、という小さな本を読みました。故熊田千佳慕先生(1911-2009)を御存知の方も多いと思いますが、大変緻密なタッチの絵本画家で『ファーブル昆虫記の虫たち』シリーズが有名です。日本のプチ・ファーブルとよばれ、屋外で昆虫や草花をよく観察し家で絵にするという、その観察眼たるや凄まじいものです。
でも決して写実ではなく、私は子どもの頃『親指姫』の絵本で感動したくらい浪漫溢れる絵を描ける人であり、他の追随を許さない独自の画風を切り拓いた人でもあると思います。
若いときに会社員の立場を捨てフリーの絵本画家として一つの道を歩み続けた人で、その生活は晩年成功するまで相当貧窮であったようですが、98歳まで現役で絵を描き続けたその強靱な精神は一体どういうものなのだろうと思い、上記の本を手に取りました。本といってもアフォリズムであり、ぱらぱらと1-2時間もあれば読めるもので、美しい絵も載っており、時に愉快でとても心打たれるものでした。
ささやかな暮らしのなかの、小さくて大きな宇宙を心から愛すること。そんな大事なことを教えてくれるのです。
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あせっても春は来ないし
忘れていても春は来る
自然はきわめて自然である。
2016年06月10日
日に日に暑くなってきました。今夏は猛暑になるかもしれないとの予報ですね。
今日はお昼に久しぶりにBOOK HOUSE(神保町の絵本屋さん)へ行き、読みたかった宮澤賢治の『よだかの星』を買ってきました。『よだかの星』の絵は、ノンフィクション作家、柳田邦男氏の著書『犠牲(サクリファイス)ー我が息子・脳死の11日』の表紙に使われていたので以前から気になっていたのですが、物語の大筋を知っていたので(一時は国語の教科書に掲載されていたようですね)改めて読む気にはなれませんでした。その時は悲しい話だと思っていたので。
よだか(夜鷹、caprimulgus)は醜い鳥とされて他の鳥たちから酷いいじめを受けます。鷹からは紛らわしい名前を改めろと脅されますが、それを拒み、力の限り夜空を突き進み、最後は星に転生する物語です。賢治はこの物語で何を伝えたかったのでしょうか…。これを自己犠牲の物語と読むか、自分の名前を守り抜いたうえでの昇華の物語と読むのか、そんなことを初夏の夜に考えてみたいと思います。
2016年06月07日
気付けば梅雨入りしており、この状態が1ヶ月半くらい続くのかと思うと布団も干せないし何となく気が重いのですが、この時季は結構曇りや束の間の晴れ間もあるということを忘れてはいけませんね。
それに曇りの方が紫陽花の花は綺麗に目に映るし、フォトジェニックなのです。
2016年06月03日
夏の前に、間もなく梅雨入りですね。
今のうちに晴れ間を享受しておこうと、今日は昼食にご近所でパスタを食べてきました。これからの季節は夏野菜が豊富に出回るので、また美味しいパスタが食べたいと火が付いてしまいました。
さて、随分前から懸案であったサイトのリニューアルをプロの方にしていただきました。これでスマートフォンからも見易くなったかと思います。私はスマホではないのでどう見えるか分からないままなのですが (笑)。今時スゴイでしょ?自慢じゃなくてただの無精なのとアンチ流行だからなのですが、そろそろスマホにしてもいいかなと思っています。因みに家にはテレビもなくて快適なラジオ生活です。テレビはとても苦手なので。育った環境はテレビがついていましたが、人、それぞれ、なのですね。
サイトについては、画像と文は従来のものですが、CMS(コンテンツ管理システム)を変えてもらったので、少々更新に勉強が必要です。今も丁寧で理解しやすいマニュアルを片手に書いているのですが、暫くは遊んだり?、不都合もあるかと思われます。でもこういう勉強は楽しいものです!
2016年06月01日
先日、一年に数度の自分へのご褒美として、またR.ワーグナーの歌劇『ローエングリン』を観てきました。休憩時間込みで5時間は長く、鑑賞後はフラフラするのですが、舞台芸術と歌と心理描写を存分に楽しんできました。私は適正な時代考証の演出が好きなのですが(例えば18世紀の物語ならその調度品や服装など)、今回のは何というかヤマギワ電気のショールームにいるような真っ白な照明が印象的な演出で、演出家には失礼ながら協賛がヤマギワじゃなかろうか…と半ば本気で思ってしまいました。
前回も感想をブログに書いたようですが、やはり数年経つ(歳をとる)と思うところも大分変化するようです。数年前は、浅はかな若気の至りの愛、のようにどこか捉えている節がありました。
歌劇『ローエングリン』は紛れもない悲劇で、色々な人物の思惑や思いが錯綜するのですが(そこは割愛)、白鳥の騎士ローエングリン(聖なる特別な力の持ち主)と純真無垢な姫エルザの悲恋です。
設定が俗世間離れしているとはいえ、古典に描かれるのは普遍的な男女の愛の心理です。こういうのを大胆且つ丁寧に切り取ってドラマに仕立て上げるところにオペラの魅力があるようにいつも思います。
騎士ローエングリンは姫エルザの危機を救って結婚をする代わりに、「自分の名前と素姓を絶対に問うてはならぬ」という固い誓いをさせます。もうここで、二人の愛の終局が簡単に予測できますね。「僕には秘密があるけれど、それは聞かないでね」と言った時点で、それは「いずれあなたは秘密を聞きたくなるだろう」と仄めかしているに等しいことだからです。ここまでは過去のブログでも紹介しました。
余談ですが、ですから本当に秘密にしておきたいことがあればその存在に言及しても匂わせてもいけないのですが、これはかなり難しいことだといえますし、また相手(この歌劇ならばエルザ側)に「否認(自分にとって不快なものを認めたくない)」の防衛機制が働く場合もあれば、真の愛から相手の秘密を不用意に詮索しない、という場合もあります。実際は、とても「否認」が多いように見受けられますが…。
さて、エルザは最初、愛と恩にかけて約束を守ると誓いますが、周囲の人間の圧力や入れ知恵から疑念は膨らみ続け、とうとう初夜に禁断の問いを発してしまいます。最終的にはかなり錯乱して、「私の想いをここまで持ち上げておいて、今度はその想いを叩き壊すのか!妻であるこの私にさえ、素姓を明かしてくれないのか」と泣き叫ぶに近い呈となります。
尤もなことと思います。この半狂乱が心にジーンと迫ってきます。
ローエングリン「心配しないでいい。私は暗黒の地からきたのではなく、光り輝く地から来たのだから」
エルザ「光る輝く地、そんなに良いところから来たのなら、尚のこといつか、私を捨ててそこへ帰ってしまうであろう」
これも尤もなことです。しんみりきます。
もうこうなると、エルザは無垢で聡明で従順な姫君というよりは、”一人の女”なのですね。
今回のドイツ人の演出家は「この作品の登場人物は、誰も成長、発展しない。誰も自分の思考を変えない。結末には希望も未来もない、というのが私の解釈です」とプログラムに書いていました。そうであるとも言える。しかし果たしてそれだけなのでしょうか。
私にはエルザが、聡明だが夢想家で頼りない娘から、実に人間らしい一人の女に成長しているように思いました。
つまりは、「夫を信頼できず、夫は何者なのかという疑念に取り憑かれた愚かな女」というのではなく、面倒臭い存在だけれども、「単に堪え忍んではいられない、自我のある一人の女」と解釈できないこともないのです。たとえ二人は結ばれることなく別離を迎え、エルザは失意のどん底に打ちひしがれるのだとしても、です。
エルザがこのような恋愛を繰り返していたら、それこそ成長、発展のない「問題」になってくるのでしょうが…。
ベージュのカーネーション carnation
※一説によれば、carn (ラテン語の肉)色から来ているとか。reincarnation(輪廻転生、再生)を想起させる花です。
2016年05月27日
竹内まりやの歌ではありません。
伊勢志摩サミットも今日で閉会。
ここ一週間、東京駅や地下鉄各駅の警察官の数が半端なく非常に多いことに気付かされました。例えば、エスカレーターを昇ったり降りたりしていると、3-4人連れの警官が必ず同乗している。改札にも通路にもウヨウヨ。コインロッカーは使用禁止。複数の若い女性警官たちは何やらお喋りしながら。腰回りの拳銃、大丈夫?と思うほど、隙だらけに見えましたが…。それにしても警官は物々しい数で、これだけ集めたらさぞや全国規模で手薄なのでは?と心配になるくらいでした。
警官の数は関東近郊の地元の駅でも増えていたようで、個人的には心強く安心していました。というのは先日、朝のホームで嫌がらせを受けたことがあったからでした。先頭に並んで本を読みながら入線を待っていると、何やら足元が冷たいのです。後ろの人が絡んできていることにやっと気づき、その場をそっと離れることにしました。まるで何か急に用事を思い出し、敵のなかを立ち退く猫のように(笑)。でも、こういうとき逃げてはいけないのですね。逃げれば追いかけてくるのは犬と同じなのです。
恐怖に駆られたときというのは、認知が歪みます。よく人は、なんで助けを求めないの?といいますが、あれは認知が歪むからです。冷静に考えれば、朝の陽光に溢れたホームには、人が沢山います。屈強の男性たちも、どこかにお出かけの中高年女性グループも。そんな人々の顔はもはや見えなくなってしまうのです。
それでもってやっと辿り着いたのは、改札にいた駅員さんでした。最近の駅員さんは実に頼もしく、対応に慣れています。「また何かあったらすぐに言ってください」ともおっしゃっていただきました。さて、今日でG7 も終わり駅は通常体制に戻るでしょう。大変心細くもありますが、今度何かあれば、迷うことなく私は近隣の男性にhelp を求めようと思いました。助けてくれなければショックですが(笑)。
ですから男性陣は、時々はスマフォや読み物から目を離す余裕を持っていてくださいね。男性に徒手空拳で助けてと言っているのではなく、危険もあるので下手に手出だしをせずに少しでも知恵と力を貸してもらえればとても嬉しいのです。
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すずらん a lily of the valley