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ブログ 心's LOOM

エスプレッソ・ブック・マシーン

2016年04月21日

以前にも書きましたが、また本の探し方について。

仕事上読みたい本が品切れで、amazon で中古だと7,000円以上もする。元が3,800円なのでこれは高い。中古市場は安く買えて当然なのですが、希少本なら致し方ないことか…。と、以前ならここでポチッとクリックしていましたが、最近はamazon 信仰も薄れてきたので(遅いかな?)、まずは出版社のサイト、ついで他の古本市場サイトを検索します。

出版社のサイトを検索してみたら、品切れは品切れでしたがオンデマンドで買えるということでした。嬉々たりかな。それでもってどこが発行しているのかというと、何でも三省堂書店神保町本店だという。エスプレッソ・ブック・マシーン?という機械によって即席に作られるのだそうです。ハードカバーじゃなくてペーパーバックということですが、データじゃなく紙媒体で読めるのだから贅沢は言えません。しかもお値段は3,800円+消費税。30年前の書籍でも同じ値段なのです。

ただここからが問題。楽天を通して三省堂に頼めば送料無料で1-2日で届くという。一方、徒歩圏内の三省堂まで出向くと3-7日間かかるというではありませんか。エスプレッソじゃなかったの?しかも、楽天サイトへストレートに入って検索しても出てはこず(正確には高い古書がヒット)、三省堂楽天市場で頼む必要があるのです。はぁ…、煩雑ですね。もうちょっとどうにかならないものか。

結局、三省堂楽天市場で注文しましたが、製本の質と事の成り行きは後日お知らせしますね。

教訓。amazon や楽天をやみくもに信じるな、消費者よ、賢くあれ、でしょうか(笑)。amazon にはとてもお世話になっているのですが。

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ナツシロギク(マトリカリア) 別名 fever few(解熱)


心というもの

2016年04月15日

少し前にどこかで読んだ専門誌の記事のなかに、根本的な問いかけがあったことを思い出しました。

それは「臨床心理士(ないし心理療法家)は心を治療することができるのか?」という問いでした。「答えはNoです」とも。この忌憚のない意見にきっと不安に思われる方もいらっしゃることでしょう。著者は以下の二つの点から心を治療することはできないと述べていましたが、これは心理療法やカウンセリングを受けるにあたってとても大事なことだと思うので少しご紹介します。

一点目として、実体がなく主観の領域である心に、医療モデルをそのまま適用することはできないこと。

二点目として、心の不調はその人の「主体性がうまく発現していない」ときなので、第三者が「治療」という操作を加えるということは、そこに「主体の主体性を否定してしまうジレンマが発生する」ということ。

医療モデルというのは実体のあるものを自然科学に基づいて治療していくことで、それは精神科にせよ心療内科にせよ、「心そのもの」を扱うというよりは、起きている現象に〇〇症や〇〇障害などの診断名を与えて投薬なり何なりで治療していくものです。うつ病なのでそれを治していきましょう、というような具合です。心を治すのではなく、うつ病を治すのです。

一方、「心そのもの」の扱いは社会科学や文学、哲学、語学などの人文科学の領域にまで及ぶものです。ですので心の専門家の存在意義は、クライアントの主体性、心の成長可能性が発現していくように環境を整えていくことにあるのだ、という内容でした。

特段の症状や生活していく上で重い支障がなくとも、生きていくことに伴う悩みというのは人生につきものです。そのことを対話し、自己を見出し主体性を取り戻していく場が、今も未来も求められていくのだと思います。

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一人の男性の成長譚

2016年04月10日

筍の季節になりました。スーパーで1本ずつ売られているのを見るとついつい欲しくなります。筍、タケノコ、竹の子といえば…。

『心理臨床の広場』という雑誌のなかに、興味を引いた記事がありました。京大の工藤晋平という先生が書かれた、〈心理臨床家が読み解く現代のものがたり〉『かぐや姫の犯した罪』というものです。ジブリの映画『かぐや姫の物語』はまだ観ていないのですが、ダダダダーッと姫が走っているだけ?のCMはメトロのホームで眺めていました。何故に走っているのだ?と思っていました。かつて学んだ古典の中身はすっかり忘れています。

さて、作者不詳の通称『竹取物語』は、『竹取の翁(おきな)の物語』ないし『かぐや姫の物語』と呼ばれており、不思議な二重性が与えられていると筆者は指摘しています。一体、男の物語なのか、女の物語なのか。余談、翁なので男というよりもおじいさんの物語なのでは思ってしまいますが(笑)。

そうかと納得したのが、竹取物語に出てくる登場人物の男たちは一人の人物だと読める(一人の男を複数の男で表現している)、という指摘でした。翁→貴公子たち(求婚者たち)→帝→月の王が順に出てきますが、それは一人の男性の成熟段階を表しているのだそうです。(最初は子どもではなく、翁と逆転させているのですね。)貴公子たちはかぐや姫の見目形や噂だけに惹かれて求婚し、少々成熟した帝は姫と和歌を介して交流を深め、それでも最後は月の王が月に連れ戻してしまい、翁(子)がそれを見て「行かないでくれ〜」と泣く構図、展開。これはまた「母なるものの喪失の物語」とも読めるのです。

原文では姫には罪があり、それが(姫の)出現と喪失の説明となっているようですが、罪が何かは今もって国文学者が追究しているテーマだそうです。ジブリの映画にも「姫の犯した罪と罰」というフレーズが付いていますが、筆者によれば「誰がそれを罪と呼んだのか」というほうが適切な問いではないかとしています。

つまりは「日本型男と女の物語」なのですね。「男と女」=「息子と母」に置き換えられるところがとても日本的というか…。ジブリ作品は原文にアレンジが加えられて大変よく出来ているそうで、早く観たいものです。またこれは補足ですが、可愛いだキレイだ体がすごいだのと見目形にとらわれている男性は貴公子並みの自らの未熟さを表明しているようなものなのですよ(笑)。

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読書より:家族とは何か

2016年04月07日

クロネコヤマトで届けられた次の本を読みました。

森 健 著『小倉昌男 祈りと経営 : ヤマト「宅急便の父」が闘っていたもの』(2016)小学館

普段経済界のことにはとんと興味が持てないのですが、書評を読むうち無性に読みたくなりました。これが面白かった。ぐいぐい引き込まれて推理小説を読んでいるような感覚になり、でも決してエンターテイメントなどではなく、いつの間にか自分が真摯な態度で向きあっていることに気付かされるような作品でした。

数々の規制と闘いながら宅急便という物流システムを作り上げた伝説の名経営者が、晩年ほとんどの私財を抛って福祉財団を築き、「障害者が月10万円稼ぐことが出来るように」という、福祉に経営理念を取り入れたシステム作りに奔走しました。それまで福祉などに興味の無かった人が、そこまでした動機は一体何だったのか?丹念な取材をもとに解き明かされていくのです。

興味のある方は読んでいただくとして、私が手に取った理由は、そこに「家族の存在」それも「家族の修羅」が関係しているからだということが書評から分かったからであり、こういう経営者の人って少なくないなと日頃感じていたからでした。

ただ読み終わって、多少なりとも家族力動や家族療法を学んでいる臨床家から見たら、この名経営者の動機や家族について、ジャーナリストである森氏とはやや異なる見解をするだろうと思われました。すなわち、家族のなかの特定の誰かの病気のせいにはしない、ということです。

私は(故)小倉昌男氏の存在を知らなかったのですが、本書で描出されているこの方と、社会的業績の大小や有無に関わらず、世にいる大勢の父親の姿が重なるところがあるように思いました。

配偶者や子ども、親といった家族の問題で悩む人、悩んだことのある人には、多いに参考になるというか、色々考えさせられる本だと思います。

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知るは一時の恥…

2016年04月05日

昨日は文字通り、桜吹雪の休日でした。幾らか気持ちも高揚し、愛車の窓も開けて諸事を片付けるべく、いざ、出陣。

と出発したところ、初っぱなからクラクションを鳴らされ、タクシーの運転手さんに怒鳴られました。どうも右折禁止のところを右折したようで…。心中「怒鳴らなくたってわかるよ」とブツブツ思いつつも、来てしまったものは来てしまったので謝ってそのまま通行しました。でも、なぜか腑に落ちない…。いつも通っているところですし…。

その日は警察署に用事があったので交通課の人に事情を話してみました。すると、地図を出してきて詳しく説明してくれました。

随分長い間、私は交通標識を誤解していたことが判明しました。右左折禁止の時間規制がある場所なのですが、「軽車両は除く」、これを全く誤解していたのです。軽はOKなのかと。これは皆さん、御存知でしたか?常識?交通課の方曰く、「軽車両は自転車、リヤカーとかだよ」と。しかも、「教習場で一番最初に習うことです」とも。うーーん。一番最初に習ったから一番最初に忘れてしまったのかも、と言ったら言い訳ですね。見つかったら2点の違反とも聞き、見せかけだけのゴールドがそうではなくなってしまう。

そうか…。右折も左折も、今まで散々迷惑なことしてきたようです。よく事故を起こさなかったと思う。こんな世の中なかなか窓を開けて教えてくれる人はいない。有り難いことだったのです。その後、その道には警官が立っていました。

リヤカーねぇ、そういえば地元はリヤカーに準ずるものが多く走っているのでした。交通標識は苦手なのですが、本当に気を付けよう。桜で浮かれてはいられません。

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桜と諸葛菜(紫の花)


桜(2016)

2016年03月31日

お昼休みに俎橋を抜けて千鳥ヶ淵の入り口まで、ささっと桜の花を観てきました。お天気で人も多く、空気は決して澄んでいないのですが、お日様のもとで観る淡い桜色はとてもきれいでした。いつかあのボートに乗りたい…と思いながら、夢心地の絵のような光景を眺めてきました。

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樹によってはまだ2-3分咲きといったところ。

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休日の読書

2016年03月29日

ノンフィクション作家の柳田邦男氏へのインタビューを元にした、『悲しみは真の人生の始まり 内面の成長こそ』(2014、PHP)を休日に読みました。本というよりはインタビューなのでサラサラ簡単に読めるものでしたが、簡単に読めた分、そこから掬い取るものをこぼしはしなかったか不安になるくらい、中身は大事なメッセージが込められていました。

同氏が書いた『犠牲(サクリファイス) わが息子・脳死の11日』が出版されたのが1995年のことだそうで、もう、そんなに月日が経つのだ…、と今回改めて驚きました。その頃、脳死や臓器提供の問題が盛んにクローズアップされていたので、当時の若い人の間では(少なくとも私の周囲では)かなり話題になった書籍であり、私も真剣な気持ちでページを繰ったことを覚えています。

脳死は人の死か、倫理的な問題は?といった、高度に進んだ現代医療の問題を取り上げたものとして読んだというよりは、それまで航空機事故や災害などを通して「人の生死」を取材してきた著者が、今度は自分の子どもの自死を通して「生死を問う」というその書き方に衝撃を受けて読んでいました。ノンフィクションという分野で、自分や自分の家族のことを取り上げながら一定の問題提起をしていくことは、高い能力と同時に実に勇気がいることと思われたからです。

ですので、「ある一つの家族の物語」として読み進めながら、「なぜ、こんなにエリートな家庭で子どもが心の病になり、自ら逝ってしまったのだろうか」という疑問が常に頭にありました。ここでいうエリートとは社会的地位が高いということではなく、「父は多様な現代の問題に造詣が深く、特に人の生死にまつわる問題を当事者の目線で第一線で取材してきた人で、子育てにも関わってきた人なのに…」という意味においてです。『犠牲』からはその全貌はつかめませんが、心や家族の問題は単純な原因と結果が結びついているものではないのだろう…ということが痛いほど切実に伝わってくるものでした。

『悲しみは真の人生の始まり』は、その後の柳田氏の思いや今大切にしていることを語られているのですが、そのなかに次のような言葉がありました。”今は「癒やし」という言葉が安易に使われている時代だけれど、本当の癒やしとは心地の良いものではない。どうしようもない苦しみや悲しみを抱え、そこから逃げずに必死に人生を生きようとするのが癒やしの本質なのです”、と。そうなのだろうな…と、20年を経て私も少しはわかるようになってきました。

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