2016年05月01日
緑輝く5月になりました。
大型連休の人も小型連休の人も、無聊を託つ人にオススメの一冊です。通勤の車内でも思わず笑ってしまったのが、『インスタント リア充 人生に「いいね!」をつける21の方法』(2016)地主恵亮著・扶桑社、です。
数年前のセッションで初めて「リア充」という言葉を聞き、それなに?と質問したら「現実生活が充実している人です」という返答がきました。リア充ねえ…。面白いと思い調べましたが、その中身は随分皮相的というか。つまるところリア充は、友達、家族、学校、仕事、趣味など愛すべき生活をワイワイエンジョイしているように見える人なのですよね。肝心なのは「見える」というところで、「あの人はリア充」と判断している大元はSNSのようなのです。
特にSNSに添付されたフォトに何が写っているか。場所、食べもの、仲間、持ち物など、他人と自分の生活を比較して嘆いている人が結構多いのです。これはまたSNSで情報を発信する側にも意識的か無意識裏に働く承認欲求があるからなのでしょうね。自己表現と自己顕示の境界は極めて不明瞭で、ネットを介して表現をする人は(自分も含めて)もう少しこの辺りのことを自覚してもいいんじゃないかとあれやこれや考えています。
さて、そんな状況を逆手に取って笑いにしているのが、地主恵亮氏の上記の本。爆笑するくらい面白いです。自分一人で演出してリア充に見せる写真を撮って投稿しているんです。しかも法に触れるような嘘、偽りはない(笑)。
ただ見誤っていけないのは、著者は「せめて上辺だけでも、モテまくってリッチでエリートで公私共々リア充な生活を送っているように見せたい!」のではないのです。これは昨今のセレブやアーティストやクリエイター志向の社会を風刺し、またSNS上でのやり取りを「よくやるよな〜」と揶揄し、面白可笑しく大笑いに変換しているのです。読んでみて心もホッと和むので、そう感じさせる力もすごいなあと思います。
2016年04月28日
ただいま、非常に噴飯もののおバカな愛すべき本を読んでいるのですが、それはゴールデンウィーク休暇前にご紹介するとして…。
昨夜は岩波ホールで映画を観てきました。
23日から公開のイタリアの巨匠エルマンノ・オルミ監督の『緑はよみがえる』です。76分という程よい時間の珠玉の作品でした。オルミ監督といえば『木靴の樹』という作品が有名ですが、これは子どもの頃見せられたものの眠ってしまっていつまでたっても観終わらない作品のなかの一つとなっています。そんなふうに心に引っ掛かっていたところ、『緑はよみがえる』を先に観ることになったわけですが、この監督は何て偉大な人なのだろうと改めて知ることになりました。
『緑はよみがえる』は第一次世界大戦の激戦地、北イタリアのアジアーゴ高原における、厳冬期の塹壕が舞台となっています。一面雪に埋もれた静寂の銀世界。美しいアルプスの山並みと皓々と輝く月、一本の落葉松の木、青々と茂る樅の木たち、時々姿を見せるウサギやキツネ。それらは、雪に埋もれた塹壕の小さな覗き窓から、兵士たちが見ることの出来る外の世界です。塹壕のなかは疫病、飢え、極寒で兵士たちの士気は落ち、追い詰められ、時折届く故郷からの手紙などによって辛うじて命を保っているような極限状態です。
オルミ監督は「これは戦争映画ではなく、兵士たちの恐れや痛みを描いた作品だ」と言っています。激しい敵の砲撃は映画の後半で一回描かれるくらいで、後は夜空に打ち上げられる敵の照明弾や、司令部からの電話による無謀な指示命令、精神のバランスを崩していく兵士の行動などから、極度の緊張感と恐怖感がひしひしと伝わってきます。大それた手柄を立てるヒーローなど不在ですし、不必要に涙を誘う作品でもありません。
実際に手を汚す者、苦しむ者は、いつの世も現場の人間、末端の人間であることを思い知らされ、人の命の尊さを考えさせられるものとなっています。
2016年04月24日
一週間が終わりました。この頃の季節は新緑や色とりどりの躑躅がとても目に眩しいですね。疲れているのか(言い訳…)シュークリームを買ってきて食べながらブログを書いています。
さて前回のブログで取り上げたオンデマンドの書籍の件ですが、2日目に無事届きました。三省堂神保町本店に直接出向いていればどうなっていたのでしょうか?今度時間のあるときはこちらの選択をしてみようかと思います。
ペーパーバックの本も予想以上の質でした。もう少し中身の紙はザラザラした若干色味のあるものを想像していたのですが、意外に白くて書き込みやすそうなものでした。私は鉛筆で書き込ながら読むので紙質は大切なのです。エスプレッソ・ブック・マシーンは以下のものです。見た目は手軽な機械ではありませんね。
http://www.books-sanseido.co.jp/service/ondemand/
ん?
上記サイトをよく読んでみましたら、神保町本店では30分で、他店では3-7日間とありました。ということは、頁数によりますが30分〜待っていれば当日入手可能だったのね。30分ぐらいだったら近くのカフェか、他の本の立ち読みで難なく過ごせそうです。
2016年04月21日
以前にも書きましたが、また本の探し方について。
仕事上読みたい本が品切れで、amazon で中古だと7,000円以上もする。元が3,800円なのでこれは高い。中古市場は安く買えて当然なのですが、希少本なら致し方ないことか…。と、以前ならここでポチッとクリックしていましたが、最近はamazon 信仰も薄れてきたので(遅いかな?)、まずは出版社のサイト、ついで他の古本市場サイトを検索します。
出版社のサイトを検索してみたら、品切れは品切れでしたがオンデマンドで買えるということでした。嬉々たりかな。それでもってどこが発行しているのかというと、何でも三省堂書店神保町本店だという。エスプレッソ・ブック・マシーン?という機械によって即席に作られるのだそうです。ハードカバーじゃなくてペーパーバックということですが、データじゃなく紙媒体で読めるのだから贅沢は言えません。しかもお値段は3,800円+消費税。30年前の書籍でも同じ値段なのです。
ただここからが問題。楽天を通して三省堂に頼めば送料無料で1-2日で届くという。一方、徒歩圏内の三省堂まで出向くと3-7日間かかるというではありませんか。エスプレッソじゃなかったの?しかも、楽天サイトへストレートに入って検索しても出てはこず(正確には高い古書がヒット)、三省堂楽天市場で頼む必要があるのです。はぁ…、煩雑ですね。もうちょっとどうにかならないものか。
結局、三省堂楽天市場で注文しましたが、製本の質と事の成り行きは後日お知らせしますね。
教訓。amazon や楽天をやみくもに信じるな、消費者よ、賢くあれ、でしょうか(笑)。amazon にはとてもお世話になっているのですが。
ナツシロギク(マトリカリア) 別名 fever few(解熱)
2016年04月15日
少し前にどこかで読んだ専門誌の記事のなかに、根本的な問いかけがあったことを思い出しました。
それは「臨床心理士(ないし心理療法家)は心を治療することができるのか?」という問いでした。「答えはNoです」とも。この忌憚のない意見にきっと不安に思われる方もいらっしゃることでしょう。著者は以下の二つの点から心を治療することはできないと述べていましたが、これは心理療法やカウンセリングを受けるにあたってとても大事なことだと思うので少しご紹介します。
一点目として、実体がなく主観の領域である心に、医療モデルをそのまま適用することはできないこと。
二点目として、心の不調はその人の「主体性がうまく発現していない」ときなので、第三者が「治療」という操作を加えるということは、そこに「主体の主体性を否定してしまうジレンマが発生する」ということ。
医療モデルというのは実体のあるものを自然科学に基づいて治療していくことで、それは精神科にせよ心療内科にせよ、「心そのもの」を扱うというよりは、起きている現象に〇〇症や〇〇障害などの診断名を与えて投薬なり何なりで治療していくものです。うつ病なのでそれを治していきましょう、というような具合です。心を治すのではなく、うつ病を治すのです。
一方、「心そのもの」の扱いは社会科学や文学、哲学、語学などの人文科学の領域にまで及ぶものです。ですので心の専門家の存在意義は、クライアントの主体性、心の成長可能性が発現していくように環境を整えていくことにあるのだ、という内容でした。
特段の症状や生活していく上で重い支障がなくとも、生きていくことに伴う悩みというのは人生につきものです。そのことを対話し、自己を見出し主体性を取り戻していく場が、今も未来も求められていくのだと思います。
2016年04月10日
筍の季節になりました。スーパーで1本ずつ売られているのを見るとついつい欲しくなります。筍、タケノコ、竹の子といえば…。
『心理臨床の広場』という雑誌のなかに、興味を引いた記事がありました。京大の工藤晋平という先生が書かれた、〈心理臨床家が読み解く現代のものがたり〉『かぐや姫の犯した罪』というものです。ジブリの映画『かぐや姫の物語』はまだ観ていないのですが、ダダダダーッと姫が走っているだけ?のCMはメトロのホームで眺めていました。何故に走っているのだ?と思っていました。かつて学んだ古典の中身はすっかり忘れています。
さて、作者不詳の通称『竹取物語』は、『竹取の翁(おきな)の物語』ないし『かぐや姫の物語』と呼ばれており、不思議な二重性が与えられていると筆者は指摘しています。一体、男の物語なのか、女の物語なのか。余談、翁なので男というよりもおじいさんの物語なのでは思ってしまいますが(笑)。
そうかと納得したのが、竹取物語に出てくる登場人物の男たちは一人の人物だと読める(一人の男を複数の男で表現している)、という指摘でした。翁→貴公子たち(求婚者たち)→帝→月の王が順に出てきますが、それは一人の男性の成熟段階を表しているのだそうです。(最初は子どもではなく、翁と逆転させているのですね。)貴公子たちはかぐや姫の見目形や噂だけに惹かれて求婚し、少々成熟した帝は姫と和歌を介して交流を深め、それでも最後は月の王が月に連れ戻してしまい、翁(子)がそれを見て「行かないでくれ〜」と泣く構図、展開。これはまた「母なるものの喪失の物語」とも読めるのです。
原文では姫には罪があり、それが(姫の)出現と喪失の説明となっているようですが、罪が何かは今もって国文学者が追究しているテーマだそうです。ジブリの映画にも「姫の犯した罪と罰」というフレーズが付いていますが、筆者によれば「誰がそれを罪と呼んだのか」というほうが適切な問いではないかとしています。
つまりは「日本型男と女の物語」なのですね。「男と女」=「息子と母」に置き換えられるところがとても日本的というか…。ジブリ作品は原文にアレンジが加えられて大変よく出来ているそうで、早く観たいものです。またこれは補足ですが、可愛いだキレイだ体がすごいだのと見目形にとらわれている男性は貴公子並みの自らの未熟さを表明しているようなものなのですよ(笑)。
2016年04月07日
クロネコヤマトで届けられた次の本を読みました。
森 健 著『小倉昌男 祈りと経営 : ヤマト「宅急便の父」が闘っていたもの』(2016)小学館
普段経済界のことにはとんと興味が持てないのですが、書評を読むうち無性に読みたくなりました。これが面白かった。ぐいぐい引き込まれて推理小説を読んでいるような感覚になり、でも決してエンターテイメントなどではなく、いつの間にか自分が真摯な態度で向きあっていることに気付かされるような作品でした。
数々の規制と闘いながら宅急便という物流システムを作り上げた伝説の名経営者が、晩年ほとんどの私財を抛って福祉財団を築き、「障害者が月10万円稼ぐことが出来るように」という、福祉に経営理念を取り入れたシステム作りに奔走しました。それまで福祉などに興味の無かった人が、そこまでした動機は一体何だったのか?丹念な取材をもとに解き明かされていくのです。
興味のある方は読んでいただくとして、私が手に取った理由は、そこに「家族の存在」それも「家族の修羅」が関係しているからだということが書評から分かったからであり、こういう経営者の人って少なくないなと日頃感じていたからでした。
ただ読み終わって、多少なりとも家族力動や家族療法を学んでいる臨床家から見たら、この名経営者の動機や家族について、ジャーナリストである森氏とはやや異なる見解をするだろうと思われました。すなわち、家族のなかの特定の誰かの病気のせいにはしない、ということです。
私は(故)小倉昌男氏の存在を知らなかったのですが、本書で描出されているこの方と、社会的業績の大小や有無に関わらず、世にいる大勢の父親の姿が重なるところがあるように思いました。
配偶者や子ども、親といった家族の問題で悩む人、悩んだことのある人には、多いに参考になるというか、色々考えさせられる本だと思います。