2016年03月29日
ノンフィクション作家の柳田邦男氏へのインタビューを元にした、『悲しみは真の人生の始まり 内面の成長こそ』(2014、PHP)を休日に読みました。本というよりはインタビューなのでサラサラ簡単に読めるものでしたが、簡単に読めた分、そこから掬い取るものをこぼしはしなかったか不安になるくらい、中身は大事なメッセージが込められていました。
同氏が書いた『犠牲(サクリファイス) わが息子・脳死の11日』が出版されたのが1995年のことだそうで、もう、そんなに月日が経つのだ…、と今回改めて驚きました。その頃、脳死や臓器提供の問題が盛んにクローズアップされていたので、当時の若い人の間では(少なくとも私の周囲では)かなり話題になった書籍であり、私も真剣な気持ちでページを繰ったことを覚えています。
脳死は人の死か、倫理的な問題は?といった、高度に進んだ現代医療の問題を取り上げたものとして読んだというよりは、それまで航空機事故や災害などを通して「人の生死」を取材してきた著者が、今度は自分の子どもの自死を通して「生死を問う」というその書き方に衝撃を受けて読んでいました。ノンフィクションという分野で、自分や自分の家族のことを取り上げながら一定の問題提起をしていくことは、高い能力と同時に実に勇気がいることと思われたからです。
ですので、「ある一つの家族の物語」として読み進めながら、「なぜ、こんなにエリートな家庭で子どもが心の病になり、自ら逝ってしまったのだろうか」という疑問が常に頭にありました。ここでいうエリートとは社会的地位が高いということではなく、「父は多様な現代の問題に造詣が深く、特に人の生死にまつわる問題を当事者の目線で第一線で取材してきた人で、子育てにも関わってきた人なのに…」という意味においてです。『犠牲』からはその全貌はつかめませんが、心や家族の問題は単純な原因と結果が結びついているものではないのだろう…ということが痛いほど切実に伝わってくるものでした。
『悲しみは真の人生の始まり』は、その後の柳田氏の思いや今大切にしていることを語られているのですが、そのなかに次のような言葉がありました。”今は「癒やし」という言葉が安易に使われている時代だけれど、本当の癒やしとは心地の良いものではない。どうしようもない苦しみや悲しみを抱え、そこから逃げずに必死に人生を生きようとするのが癒やしの本質なのです”、と。そうなのだろうな…と、20年を経て私も少しはわかるようになってきました。
2016年03月27日
一週間が無事終わりました。ほっ。さて、何でもない話。
60代の女性の声について。正確には女性歌手の声について。
最近仕事の後、ぼーっと中島みゆき、竹内まりや、ユーミンetc.の曲を聴くことが増えました。特に選んでいるわけではないのだけれど、やはり大御所の安定した成熟した声は説得力があって癒されるのです。深ーい懐に抱かれている感じ。疲れて”母なるもの”を求めているのかもしれません。でも、この方たち、若い頃から声があまり変わっていませんね。声が一番歳をとらないと言われていますが、逆に彼女たちは、若い頃からいい意味で歳をとった声の持ち主なのかもしれません。
特に最近は中島みゆきの曲を聴いているのですが、どうしようもなく暗い唄、愛の唄、応援歌、優しい柔らかい声、野太い声、パンチがある声、心に響いてきます。ファンなんて言えないけれど(きっとそれはアルバムを買っている人のことだから)、小5の時に買ったカセットテープ(当時2,800円。子どもにしてはかなり高いでしょ?)が骨の髄まで染み込んでいることは確か。
しかし、中島みゆきにしても竹内まりやにしてもユーミンにしても、本人の唄はなるべく本人が歌うに限ると思うのは偏狭でしょうか。元アイドルなど声の甘ーい人が可愛らしく歌うと、途端に魅力が失せてゲンナリしてしまいます。
2016年03月18日
最近まで、以前のブログでもご紹介したルポライター、杉山春さんが書いた『ネグレクト–育児放棄 真奈ちゃんはなぜ死んだか』(2007)と『ルポ虐待:大阪二児置き去り死事件』(2013)を読んでいました。前者は2000年、後者は2010年の事件でまだ記憶に新しいと思います。
こういった凄惨な事件がひとたび起きると、激しく親を糾弾する空気が一気に噴出しますが、杉山氏の著したルポは冷静で緻密、「子どもや親のために、一体どうしたら児童虐待を無くせるのか」という志向に基づいた取材なので、非常に沢山の意義深い視点を与えてくれました。加害者の親たちと直接会ったり手紙のやり取りを続けていくのは、弁護士でも医者でもなく中立的な立場だからこそ可能なのだとも思いました。
「無力な子どもたちのために」は勿論のこと、「親のために」という視点は、本当に虐待を無くそうとする上で不可欠なものであるということが、本書を読むとよく分かります。逆説的ですが、何かあったとき親を激しく非難するようなムードが強い社会であると、育児は密室のなかに抱え込まれ、隠蔽され、支援の手が届かなくなってしまうのだということが理解できます。
また、ネグレクトした親もかつてはネグレクトされてきた子であったこと(世代間連鎖の問題)、ネグレクトをされてきた子どもが大人になったときの物事の認知の仕方、「家事・育児は最終的には女の仕事」という根強い役割分業意識、女性の自立の問題など、多様な視点から紐解くこともできます。
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今年はsweet pea 三昧。
2016年03月15日
外はまだ風が冷たいけれど、昨日までの一週間に比べ、だいぶ空気が緩んできました。暑さ寒さも彼岸まで。今週からお彼岸入りですね。暖かさが安定してくれるといいなと思います。
この季節は花粉症など何かと心身不調に陥りやすいですが、私はいつもプラットホームから見えるミモザアカシアの大木に癒されています。レモンイエローの房状の花が満開のこの時季。これも一種の、鬱状態のための光療法になるのではないかと思えるような、それはそれは見事な澄んだレモンイエローなのです。写真を撮れないのが残念。
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white dayのデコラティヴなイースター・エッグ。全部食べられるのだそうな。可愛くて食べられません。
2016年03月13日
こんな新聞記事を読みました。
それは野鳥のシジュウカラが、”鳴き声の「単語」を二つ組み合わせて「文」をつくり、その「語順」を聞き分けて意味を理解している”、という国内の研究結果が得られたというニュースでした。鳥は幾つかの鳴き声を持っていて、仲間に危険を知らせたり恋の時季には相手の気を引いたりとコミュニケーションをとっていることは知っていましたが、「構文を作る」ということの発見は画期的ではないでしょうか。
例えば、仲間を呼ぶ「ヂヂヂヂ」と危険を知らせる「ピーツピ」という2つの鳴き声の場合、「ヂヂヂヂ、ピーツピ」と「ピーツピ、ヂヂヂヂ」はシジュウカラに異なる行動を引き起こす、とのことです。(両者の意味の違い、興味のある方はネット検索でどうぞ。)
私がここで連想したのが、以前受けた精神科医の先生の講義で、「自分の人生の物語(ストーリー)のどこに punctuation (句読点)を置くかで、物語の意味は異なってくるし、人生のストーリーはその人生を終えるまで punctuation で続いていく…」というようなお話があったことでした。
ごく簡単な例で、「私は昔こんな酷い目に遭ったが、今はそれなりに幸せである。……」というのと、「私は今はそれなりに幸せである。だげど、昔こんな酷い目に遭って、……」という二つのセンテンスがあるとして、両者は大体同じことを言っています。ですが、「……」以降の流れでは、そこから展開されていく物語や付与される意味合いは当然異なってきますよね。心理臨床の狙いは「クライアントの人生のどこに punctuation を置くのかを試みながら(その人生は更にずっと流れていくものではあるのですが)、その人生の物語の再構築をはかること」であると教わりましたが、正にそうなのだと思います。
さて、シジュウカラの記事で私が面白いなと思ったのは、「人間が最も高等動物である」というのはやはりナンセンスで、現在解明されている以上にもしかしたら他の生物も punctuation を使って毎日を生きているのかもしれないなということでした。ある種の猫は時々長い時間お喋り?するときがあるのですが、これなどどう思われるでしょうか(笑)。
2016年03月08日
昨日と打って変わり雨降りのとても寒い一日です。昨日より薄着で来てしまい後悔…。春の気候が変わり易いのは当たり前なのですよね。
さて、今読みかけの本を脇によけて、興味深くて一気に読んだのが次の本。杉山春 著(2016)家族幻想–「ひきこもり」から問う ちくま新書、というルポルタージュです。著者は女性や家族をめぐる社会問題を取材してきた女性ルポライターの方ですが、今回初めて知り他の本も取り寄せてみることにしました。
虐待、ひきこもり、夫婦間暴力、家庭内暴力、シングルマザーや子どもの貧困、非正規や格差の問題、認知症や介護の問題といったことは、どの家族にも起こり得る現代社会の問題で、臨床にも深く関わってくるテーマです。とかく臨床の世界では、〇〇障害や〇☓症といった診断名をつけて個や家族の単位に刻んで治療や支援をはかっていきますが、それだけでは片手落ちというか問題の解消には程遠いなとしばしば思っています。ですので、ジャーナリスティックな視点からの意見、各問題の時代背景の分析といったものがとても重要になってくると思うのです。
この著作は、20-40代になるひきこもり当事者やその親への長年の取材をとおし、「社会的ひきこもりとは社会や親の規範(価値観)に束縛され身動きできなくなった状態」としています。これを心理臨床の世界なら「傷ついて肥大化したナルシシズム(自己愛)の問題」とするのでしょうが…。杉山氏は一言も「自己愛」という言葉を使っておらず、結局意味しているところは重なるとはいえ、彼女の指摘は大変重要だと思いました。私たちが成長していくということは、親の絶対的な価値観を、成長過程で出会う様々な他者の価値観と擦り合わせて相対化していく、ということに他ならないからです。
著者は “「この社会はあなたのそして、私の場所だ」とまず、子どもと若者に伝えなければならない。そして、他者からの評価、目線に合わせて揺れるのではなく、生きる主体としての自分を作り出す営みが不可欠だ。”、とし、その作業は困難かもしれないが、それでも私たちは困難な日々を皆で生き延びなくてはいけないと締めくくっています。
自分は価値があるのかないのかといったことに悩んでいる人や家族に読んでもらいたい一冊でした。
2016年03月06日
この季節、どこからともなく漂ってくるこの花 ↓ の香り。清々しい気持ちになります。
そして思い出す、ユーミンの歌、〈春よ、来い〉。
下は神保町保育園前の沈丁花。今満開です。