2016年03月15日
外はまだ風が冷たいけれど、昨日までの一週間に比べ、だいぶ空気が緩んできました。暑さ寒さも彼岸まで。今週からお彼岸入りですね。暖かさが安定してくれるといいなと思います。
この季節は花粉症など何かと心身不調に陥りやすいですが、私はいつもプラットホームから見えるミモザアカシアの大木に癒されています。レモンイエローの房状の花が満開のこの時季。これも一種の、鬱状態のための光療法になるのではないかと思えるような、それはそれは見事な澄んだレモンイエローなのです。写真を撮れないのが残念。
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white dayのデコラティヴなイースター・エッグ。全部食べられるのだそうな。可愛くて食べられません。
2016年03月13日
こんな新聞記事を読みました。
それは野鳥のシジュウカラが、”鳴き声の「単語」を二つ組み合わせて「文」をつくり、その「語順」を聞き分けて意味を理解している”、という国内の研究結果が得られたというニュースでした。鳥は幾つかの鳴き声を持っていて、仲間に危険を知らせたり恋の時季には相手の気を引いたりとコミュニケーションをとっていることは知っていましたが、「構文を作る」ということの発見は画期的ではないでしょうか。
例えば、仲間を呼ぶ「ヂヂヂヂ」と危険を知らせる「ピーツピ」という2つの鳴き声の場合、「ヂヂヂヂ、ピーツピ」と「ピーツピ、ヂヂヂヂ」はシジュウカラに異なる行動を引き起こす、とのことです。(両者の意味の違い、興味のある方はネット検索でどうぞ。)
私がここで連想したのが、以前受けた精神科医の先生の講義で、「自分の人生の物語(ストーリー)のどこに punctuation (句読点)を置くかで、物語の意味は異なってくるし、人生のストーリーはその人生を終えるまで punctuation で続いていく…」というようなお話があったことでした。
ごく簡単な例で、「私は昔こんな酷い目に遭ったが、今はそれなりに幸せである。……」というのと、「私は今はそれなりに幸せである。だげど、昔こんな酷い目に遭って、……」という二つのセンテンスがあるとして、両者は大体同じことを言っています。ですが、「……」以降の流れでは、そこから展開されていく物語や付与される意味合いは当然異なってきますよね。心理臨床の狙いは「クライアントの人生のどこに punctuation を置くのかを試みながら(その人生は更にずっと流れていくものではあるのですが)、その人生の物語の再構築をはかること」であると教わりましたが、正にそうなのだと思います。
さて、シジュウカラの記事で私が面白いなと思ったのは、「人間が最も高等動物である」というのはやはりナンセンスで、現在解明されている以上にもしかしたら他の生物も punctuation を使って毎日を生きているのかもしれないなということでした。ある種の猫は時々長い時間お喋り?するときがあるのですが、これなどどう思われるでしょうか(笑)。
2016年03月08日
昨日と打って変わり雨降りのとても寒い一日です。昨日より薄着で来てしまい後悔…。春の気候が変わり易いのは当たり前なのですよね。
さて、今読みかけの本を脇によけて、興味深くて一気に読んだのが次の本。杉山春 著(2016)家族幻想–「ひきこもり」から問う ちくま新書、というルポルタージュです。著者は女性や家族をめぐる社会問題を取材してきた女性ルポライターの方ですが、今回初めて知り他の本も取り寄せてみることにしました。
虐待、ひきこもり、夫婦間暴力、家庭内暴力、シングルマザーや子どもの貧困、非正規や格差の問題、認知症や介護の問題といったことは、どの家族にも起こり得る現代社会の問題で、臨床にも深く関わってくるテーマです。とかく臨床の世界では、〇〇障害や〇☓症といった診断名をつけて個や家族の単位に刻んで治療や支援をはかっていきますが、それだけでは片手落ちというか問題の解消には程遠いなとしばしば思っています。ですので、ジャーナリスティックな視点からの意見、各問題の時代背景の分析といったものがとても重要になってくると思うのです。
この著作は、20-40代になるひきこもり当事者やその親への長年の取材をとおし、「社会的ひきこもりとは社会や親の規範(価値観)に束縛され身動きできなくなった状態」としています。これを心理臨床の世界なら「傷ついて肥大化したナルシシズム(自己愛)の問題」とするのでしょうが…。杉山氏は一言も「自己愛」という言葉を使っておらず、結局意味しているところは重なるとはいえ、彼女の指摘は大変重要だと思いました。私たちが成長していくということは、親の絶対的な価値観を、成長過程で出会う様々な他者の価値観と擦り合わせて相対化していく、ということに他ならないからです。
著者は “「この社会はあなたのそして、私の場所だ」とまず、子どもと若者に伝えなければならない。そして、他者からの評価、目線に合わせて揺れるのではなく、生きる主体としての自分を作り出す営みが不可欠だ。”、とし、その作業は困難かもしれないが、それでも私たちは困難な日々を皆で生き延びなくてはいけないと締めくくっています。
自分は価値があるのかないのかといったことに悩んでいる人や家族に読んでもらいたい一冊でした。
2016年03月06日
この季節、どこからともなく漂ってくるこの花 ↓ の香り。清々しい気持ちになります。
そして思い出す、ユーミンの歌、〈春よ、来い〉。
下は神保町保育園前の沈丁花。今満開です。
2016年03月03日
今日は雛祭り。
朝、友達から送られてきたお雛様の写真。綺麗ですね。後ろの蒔絵も美しい。静謐でありながら華やか。欲しいなー。人形というのは固有の魂が籠もっているようでとても惹き付けられます。たとえ自分の心の投影に過ぎないとしても…。
暖かくなってきましたが、まだまだインフルエンザが流行っているようです。乾燥に気を付けて過ごしましょう。
2016年03月01日
毎朝見上げる桜や松の樹々も枝の張りがどことなく柔らかくなってきました。これから日一日と空気が和らいでいって、お花見のシーズンに入っていくのでしょうね。春は意欲に燃える時季であると同時に、気だるくもあり、何となく意気消沈するところもあり、一筋縄ではいかないなと思うのですが、他の方はいかがでしょうか…。
何かとやるべきことの多いこの時季、self-esteem を高めるためにお遊び的にあることをしたら、先日ブログで取り上げた『スタンフォードの自分を変える教室』にも同様のことが書かれてありました。まあ、この仕事をしている人なら誰でも考えつきそうなことなのですがね。それは、「将来の自分にメッセージを送る」というエクササイズで、つまりは自分宛に手紙を書くのです。子供時代に手紙を書いてカプセルに入れてどこかに埋めた、という経験のある人もいらっしゃるかもしれませんが、年月を経てきちんと掘り起こして読んでいるのでしょうか?
将来といっても何十年じゃなくて、数年先でいいと思います。将来の自分がどうなっていてほしいか、将来の自分に今の自分が何を話しておきたいか、視点を逆にして、将来の自分が今の自分にしていてほしいこと、どうやって過ごしてほしいか、なども織り交ぜると段々楽しくなってきます。
よく耳にするのが、「自分が何をしたいのかわからない」という言葉です。仕事や生活を送る上で何をしたらいいのかわからないけれども、現状に満足していないという場合、このようなワークをしてみるのもいいと思います。
『自分を変える教室』のなかの第7章、「将来を売り飛ばす–手軽な快楽の経済学–」という章はなかなか厳しいことが書かれています。人は「将来の自分」を過大評価しがちで、だから今やるべきことを先に先に延ばしがちな傾向にあること。将来の自分に過大なタスクを背負わせているということですね。それはすなわち、「今の自分」と「将来の自分」の隔たりがとても大きいということでもあるわけです。将来の自分も今の自分も能力的に変わりはないのです。だからこそ、将来の自分を遠ざけるのではなく、身近に親しくなっておく。将来の自分を想像したり、メッセージを送ったり。(万能な将来像を夢想する、というのとは違います。)
人は過去・現在・未来という時間軸を自由に行ったり来たりしてみると、「自分が何をしたいのか、どうやって生きていきたいのか」ということが具体化していく、一つの手助けになるのだと思います。
2016年02月28日
一週間が無事終わりました。
寒かったり温かかったり、最近は汗をかいていらっしゃる方が多いのかなと思っていたら、どうやら花粉症のようでした。目も鼻も喉も辛い時期ですね。そろそろ抜本的な治療法はないものだろうかと思います。
辛い時期にこぼれ話(既にテレビで放映しているのかしら)。
先日、ラジオを聴いていたら、こんな面白い話がありました。面白がっていいのかわからないけれど、思わず笑ってしまいました。それは、いたずらに110番通報をするな、という市の広報だったのですが、110番に「道路の混雑情報を教えてほしい」「自宅のネットが繋がらない」などの問い合わせがあるのでやめてほしい、という内容でした。これを真顔ならぬ真剣に放送しているのです。
そして♯9110と110番の前に#9 を押せば警察相談専用電話に繋がり、緊急性を要しない生活上の安全に関する相談ができるとのことです。私は最初、早合点し、#9(キンキュウ?) は更に緊急の回線かと思ってしまいました。ややこしいですね。