2016年07月08日
さて、前回のブログで言及した、『幸せになる勇気』岸見一郎・古賀史健著(2016)ダイヤモンド社を興味深く読みました。前作に引き続き哲人と青年の問答形式(対話形式)で進められていくので、大変読みやすく、また面白く、あっという間に読めてしまいます。
かったるいと言えば、この青年の問答がかったるいくらいでしょうか(笑)。『嫌われる勇気』に登場した青年が情熱をもって教師になり、アドラーの教えを安易に理解して「生徒たちを叱らず、褒めもせず」指導していたら学級崩壊を招いてしまい、猛り狂って哲人を責めに来た、という構図になっているのですが、まあ、この青年は自分の頭で考えようとせず、とにかく他責の人です。
「アドラーの教えは高邁な理想に過ぎず実践で役立たない。今すぐ実践で役立つことを教えてほしい」とくってかかるわけですが、こういう光景はよく目にするところです。例えばアドラー以外の本を薦めても「この本は当たり前のことを言っているに過ぎない。実践で役立つことを知りたい」など。自分の理解がどうなのか、問題はないのか、といったことにはどうも目が向かないのかもしれません。
この哲人と青年のエネルギッシュな対話を楽しんでみるのもいいですし、アドラー心理学の教えを自分で考えながらゆっくり学んでいくのもいいと思います。
読んでのお楽しみですが(待合に『嫌われる勇気』と『幸せになる勇気』を置いておきます)、アドラーは、教育の目的は「自立」であり、自立とは「自己中心性からの脱却」であり、自己中心性から脱却するには「愛されることを求めるライフスタイル」ではなく、「愛することのライフスタイル」を送り続けていくことが必要だと説いています。教育の目的というところは、人生の目的という言葉で置き換えてもいいとお思います。
これらの言葉の一つ一つの意味は奥深く、例えば自立は経済的、社会的自立を意味するのではないのでご注意を。
2016年07月07日
暑さが本格的になるのが小暑ということですが、今日の東京神保町界隈は猛暑でした。36,7度はいったのでしょうか?
お昼休みに三省堂まで歩いたのですが、吸う空気が暑くて暑くて。三省堂の前に辿り着くと地方の風鈴が売られており、しばし見入ってしまいました。音が涼を運んできてくれて心地良いですね。
本日三省堂へ急いだのは、アドラー心理学の研究者である岸見一郎氏の著『嫌われる勇気』の続編『幸せになる勇気』(2016)を手に入れるためです。『嫌われる勇気』は私も読みこの本が有用と思われるクライアントさんたちに薦めてきたのですが、続編はまだ目を通していませんでした。また後日感想を書きたいと思います。
2016年07月01日
昨今は身体指向の心理療法も優勢ですが、ほとんどの心理療法は言葉を使っておこなうものなので、言葉というものには一応、細心の注意を払いたいと思っています。ある人が「ある一つの言葉」を使っても、その言葉に喚起されるイメージや連想、考えなどは人それぞれに異なるので、その差異も含めたうえで、言葉に対する感覚を磨いていくことは大事だと思います。
例えば私の周囲では、配偶者のことを「主人」と呼べる人と呼べない人に如実に分かれるのですが、この差異を考えてみるのも興味深いことと思います。そんなの人の勝手じゃん!と言ってしまったら、何でも話はそこまでなのです。
さて、今日面白かった新聞記事に「隠語化される差別 カタカナの特性」というものがありました。小中学生の間で「ガイジ」(障碍児の一部)という言葉によるいじめがあって(信じられませんが元は保育科の女子学生の間で広まったという説もあります)、この言葉がいかに人を傷つけるか教育啓蒙するにあたり、ガイジを「がいじ」とひらがな書きにして冊子を作っている自治体があることから、言葉による差別について取材している記事でした。(本来、人を傷つけるか否かより、こういう仲間内にしか通用しない侮蔑的な隠語を使ってしまう知性の方が恥ずかしいことだと思うのですが。)
カタカナは一般に硬く刺々しい印象を与え、ひらがなはまだマイルドなので、冊子にはひらがなを起用しているとの自治体の説明を記者は紹介していました。
私もこれを書くにあたり、現在よく言われている、障害を障がいと表記するか旧字の障碍にするかで迷いました。迷った挙げ句に旧字にします。アメリカで障がい児の発達支援研究をしている日本人の先生はいち早く「障がい児」と使っていましたが、害をがいにしても障もさわるという意味がありますし、言葉の使い方だけではなく現在ある問題自体に向きあうことを等閑にしてはいけないと思うからです。
されど言葉。難しいですね。
ひらがなの多用は語感がマイルドで人に優しく響く反面、語彙の平板化、ひいては思考の劣化を招くようにも思います。
2016年06月26日
こんな新聞記事を読みました。
インターネット上における書き込みなどのリスクについて、ITの専門家が都内の高校などを回って指導をしているという記事で、こういうのを大人も知っておかないといけないなと改めて思いました。知った気になっていて知らない、というのがネットやSNSの社会ではないでしょうか…。
専門家によれば、書き込みや投稿は「自分の家の玄関前に貼れる内容のものかどうかを目安に考えなさい」というものでした。これはなかなかいいアドバイスだと思います。どこまで自己開示や表現をするかは最終的にはその人の判断ですが、投稿にある程度の責任を持ったり、他者(読み手)への配慮をしたり、また自分の身を守っていく必要はあります。
匿名で好き勝手をしても、いざとなれば身元が判明します。極端な場合、暴行や虐待などの動画をあげたりツイッターなどで誹謗中傷したり炎上を持ちかけたりしても、いずれ顔は割れるのです。
ネットにおける書き込みは、例えば渋谷の交差点のど真ん中で自分の名前や携帯番号などの個人情報を大っぴらに見せているよりもタチが悪く、世界に向けて個人情報を半永久的に(何らかの形で消えないと思っていた方がいいようです)ばらまいているのと同じようなことだそうです。
老若男女が気軽に使っているスマートフォンの爆発的な普及がこういったリスクを増大させているようですが、日常の利便性と引き換えに失われいくものに目を向けてみることも大切なのではと、毎朝の通勤電車で思います。一つに人の耐性がとても弱くなってきていることは火を見るより明らかですが、これについてはまたよく考えてみたいと思います。
2016年06月19日
ここのところの通勤には、軽めの読み物ということで、動物学者の山根明弘氏が一般読者向けに書いた『ねこはすごい』(2016,朝日新書)というものを読んでいます。
リビヤ山猫を先祖とする現在の猫の身体能力や感覚力について書いているのですが、そのなかに雄猫の子育てについての描写もあり面白いなと思いました。家庭で飼われている雄猫は「イクニャン」になることもあるし、またある島のフィールドワークによれば、野良猫社会の雄猫も1歳未満の仔猫に対し(自分の血縁以外の仔猫に対しても)自分より先にエサを食べさせるのだそうです。これはネコ科のライオン社会には見られない行動だそうで、ライオンは力(体の大きさや年長)のある雄からエサを食べるとのことでした。
家庭の雄猫が子育てをすることがあるのは知られた話ですが、私がかつて飼っていた雄猫も、自分の子ではない、家で産まれた4匹の仔猫の世話をそれはそれは甲斐甲斐しくみていました。これは観察していてかなり楽しかったです。最初その雄猫は、仔猫たちの方を意識して見ないようにしていました。絶対に目を合わせないし、ミャア…ミャア…いう鳴き声にも意識して反応しないようにしていました。怖かったのでしょうか。
やがて仔猫の行動範囲が広がって雄猫にまとわりつけるようになると、雄猫は率先して仔猫たちの毛繕いや遊び相手、また寝るときは常に自分の傍に仔猫たちを咥えて運んできていました。この時の仔猫の全長は15cm未満、女性の掌サイズくらいです。
初めは雄猫が仔猫を襲うのではないかと相当心配でしたが、母性が?目覚めたようでしっかりとイクニャンになっていったのです。反対に母猫は自由にのびのびと育児放棄していきました(笑)。
猫話になってしまいましたが、これはちょっとした示唆を与えてくれるような気がするのです。それは猫も野良猫集団では雄の子育てまでは期待できない。けれども狭い家庭の中では子育てをする場合も生じる。ということは、猫も本能だけで生きているのではなく、様々な環境に影響され適応していく生き物だということですよね。
ということは、何をいいたいのか。
つまりは人も環境に影響され適応していく生き物なので、男性の子育てや家事(毎日の家事の切り盛り全般をすること)も当たり前になり、「イクメン」などという言葉が無くなる時代を所望することも夢ではないように思えてくるのでした。それを望まない人たちもいるのでしょうが…。
2016年06月15日
最近、目の保養に、『私は虫である』熊田千佳慕の言葉(2010)求龍堂、という小さな本を読みました。故熊田千佳慕先生(1911-2009)を御存知の方も多いと思いますが、大変緻密なタッチの絵本画家で『ファーブル昆虫記の虫たち』シリーズが有名です。日本のプチ・ファーブルとよばれ、屋外で昆虫や草花をよく観察し家で絵にするという、その観察眼たるや凄まじいものです。
でも決して写実ではなく、私は子どもの頃『親指姫』の絵本で感動したくらい浪漫溢れる絵を描ける人であり、他の追随を許さない独自の画風を切り拓いた人でもあると思います。
若いときに会社員の立場を捨てフリーの絵本画家として一つの道を歩み続けた人で、その生活は晩年成功するまで相当貧窮であったようですが、98歳まで現役で絵を描き続けたその強靱な精神は一体どういうものなのだろうと思い、上記の本を手に取りました。本といってもアフォリズムであり、ぱらぱらと1-2時間もあれば読めるもので、美しい絵も載っており、時に愉快でとても心打たれるものでした。
ささやかな暮らしのなかの、小さくて大きな宇宙を心から愛すること。そんな大事なことを教えてくれるのです。
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あせっても春は来ないし
忘れていても春は来る
自然はきわめて自然である。
2016年06月10日
日に日に暑くなってきました。今夏は猛暑になるかもしれないとの予報ですね。
今日はお昼に久しぶりにBOOK HOUSE(神保町の絵本屋さん)へ行き、読みたかった宮澤賢治の『よだかの星』を買ってきました。『よだかの星』の絵は、ノンフィクション作家、柳田邦男氏の著書『犠牲(サクリファイス)ー我が息子・脳死の11日』の表紙に使われていたので以前から気になっていたのですが、物語の大筋を知っていたので(一時は国語の教科書に掲載されていたようですね)改めて読む気にはなれませんでした。その時は悲しい話だと思っていたので。
よだか(夜鷹、caprimulgus)は醜い鳥とされて他の鳥たちから酷いいじめを受けます。鷹からは紛らわしい名前を改めろと脅されますが、それを拒み、力の限り夜空を突き進み、最後は星に転生する物語です。賢治はこの物語で何を伝えたかったのでしょうか…。これを自己犠牲の物語と読むか、自分の名前を守り抜いたうえでの昇華の物語と読むのか、そんなことを初夏の夜に考えてみたいと思います。