2020年07月11日
コロナのことについて日々の生活や臨床で感じる雑感を述べたいと思います。あくまでも主観の範囲ですが、地方の人と首都圏の人とではこのウィルスに対する態度が異なるように感じます。
地方の人は「東京はとても危険なところだ」と思い、また自粛の度合いが強いように見受けられます。「外食もここ数ヶ月していません」という人もいます。反対に首都圏の人は緊急事態宣言が解除されてから、余暇活動など生活の範囲をだいぶ広げて動いているように思います。
感染者数が少なく生活空間が広くて自然も豊かな地方でコロナに対する恐怖心が高いのに対し、反対に環境的に人々が密集して生活している東京ではさほど怖がってもいないのでは?という差を感じるのです。(勿論例外も多々あります。)
毎日東京まで電車を利用していて思うのは、2-5月は車内も駅構内も緊張感が断然に異なりました。ほとんどの人が吊皮や手すりに触れようとはせず頑張って立っていたり、エスカレーターのベルトにつかまる人もあまり見受けられず人と人の間をなるべく開けて利用していました。張り詰めた空気が漂い、話をする人もほとんどいませんでした。
過剰だとは思いますがマスクを二重にしている人、ビニール手袋をしている人もいましたが今は滅多に見かけません。吊革にかけるMyフックが注目されていましたがそれを使っている人も今のところ見ません。実際は感染者数が増え続けていますが、号令(週末の外出自粛要請や緊急事態宣言)次第でこのように態度が変わるのは、コロナに対する一定の知識を得たための合理的な判断に基づく行動なのでしょうか。そうだといいのですが、若い人の中にはマスクをせずに車内で普通に話している人がいるのも事実です。
一方で、地方の知事が東京を敵視したり首都圏からの移動を怖がるという心理も、「東京から来た人が感染を広げる」という事実のみによるものではなさそうに思います。人は自分が置かれた生活環境や背景によって、危機に対する感度や認知が自ずと異なってくるのではないでしょうか。首都圏の人も地方の人もどちらにも、認知的なバイアス(偏り)がかかっているように思われます。社会経済活動を停滞させないためにも、自分のバイアスに気付き、バランスを取りながら生活をしていくことが大切なように思います。行き過ぎた恐怖心も気の緩みも社会の停滞を招いてしまうと危惧しています。
2020年06月21日
晩に家の中で寛いでいると、外から珍しく猫同士の喧嘩声が聞こえてきました。一匹はかなりいきり立って一触即発ムードの唸り声をあげていました。よく聞いているともう一匹は普通に鳴いていたので、もしかしたら時節柄交尾のための接近だったのかもしれません。それとも単に鈍くさい子が縄張りに侵入してしまったのか…。
いずれにしても10分くらい鳴いていたので、心がザワザワとざわついてしまいました。界隈には猫嫌いの人もいて、何をするかわからない怖さがあったからです。近年野良猫は保護され地域の家猫となりほとんど見られなくなってもいました。一方で猫嫌いの人たちからすれば、猫の異様な唸り声、絶叫に近いような鳴き声は相当な苦痛であったことでしょう。
鳴き声が去ると胸のザワザワはいつしか消え、寝入りばなに読ん文献が妙に心に響きましたので抜粋しながら少し紹介したいと思います。
「ストレスは、おそらく闘争=逃走反応と呼ばれてきたものに対する、より幅広い用語である。ストレス反応は、実際には我々ほ乳類の生き残りのためのメカニズムのための一部である。ほ乳類は、脅かされると、闘う(怒る)か、逃げる(恐怖)。…人間も似たように反応する。しかしながら、動物とは違って、ある重要な次元が付け加わる。恐れも怒りも行動には表さなかったり、…、身体の中に抑圧したりすることがある。……人間の場合、脅威は心理的なものであることがほとんどであるが、脅威が身体的なものであるかのように反応する。」(J.G.Wartkins,H.H.Wartkins『自我状態療法』2019金剛出版より)
動物たちにとっての脅威は侵入者や捕食者など目に見える危機であってわかりやすい。猫は猫に怒り、闘争モードになっていました。人間はもっと複雑で脅威は心理的なものです。私の恐れは猫が虐待などされてしまうのではないかという不安であり想像です。猫嫌いの人にしても猫が直接その人を襲うのではなく、存在や声などがその人に抱かせる観念やイメージに対する、極めて心理的なものです。
心理的なものなのに身体的なものであるかのように身体が反応し、場合によっては身体の中に情動を抑圧し身体症状や疾患として表れるようになる。人がいかに複雑な生き物であるかと思いますが、ストレス反応を生き残りのためのメカニズムの一部と知ると、私たちが「生」を指向するようにできていることに改めて驚くのです。
2020年06月12日
梅雨に入り日毎に蒸し暑くなってきましたね。
暑さと湿度がほどほどならいいのですが、この湿度の高さは不快でまいります。湿度が低ければ多少なりとも活動的になれるのに…ブツブツ…
涼を求めてというわけでもありませんが、先日は6月から再開の地元の水族館へ行き、水中・水生生物を存分に眺めてきました。コロナの影響のせいか施設内の店舗は減り閑散としているエリアもありました。
生き物を観察することは私のストレスコーピング方法の一つです。人間界の事象も大変興味深いものですが、世界は実に広く深くユニークであることをいつも教えられます。
2020年05月31日
5月も最終日を迎えました。早いものです。
2月まではどうにか研修にも遠出できていたものの、3月以降は息をひそめてキュッと縮まって生活していたなあ…と、今になってその頃のストレスを感じ始めています。自粛ができるのは日本人の美徳なのかもしれませんが、「外に出るな」という相互監視のような空気をひしと感じていました。
その一方で、街全体がほぼ眠っている環境で生きていくことが、楽だな…と思う面もありました。日頃のヒトとモノと情報と雑音の過多にいい加減疲れていたのかもしれません。
今、一応緊急事態宣言は解除されたものの、種火がちょろちょろと燃えているような不安な状況が続いていますね。引き続き控えるところは控え、それでも可能な範囲で自律的な暮らしをしていきたいと考えています。
2020年05月29日
周知のとおり東京も26日から緊急事態宣言が解除されました。
街も駅も人が増えてきていますが、そうはいっても以前とは異なります。使用する路線によって事情は違うのでしょうが、テレワークが進んだためか通勤ラッシュはあまり見られません。
「経済か人命か」と二項対立で語られることがありますが、経済活動が人命や健康に直結する場合も既にあり得るのです。
精神分析の北山修先生が、「経済と人命と心」を同時にみていかなくてはいけないと先日述べておられました。あれかこれかではなく、あれもこれもそれもと、同時に三項を考慮する必要があります。「心」とは「人心」、つまり個人の心理と社会集団の心理、両方がこの状況下において考えるべき大事な事柄なのだと思いました。
2020年05月10日
オンライン飲み会をしてみたら意外と楽しかったという話をよく聞くようになりました。
私はまだ未経験なのですが、仕事においては確実にonlineのものが増えてきました。同業者同士のミィ―ティングやクライアントさんに対するzoomやスカイプでのカウンセリングをはじめ、先日は自分のための心理療法をスイスの先生から受けました。
対面カウンセリングができない方には代替手段として電話カウンセリングを主に行ってきましたが、今後はスカイプでの提供も安定してきましたので電話カウンセリングをお受けになる方にはそちらも提案させていただきます。ただし、どういうわけかスカイプの私の音声が聞こえないという現象が幾つか発生していますので(こちらには皆様の音声と映像が届くのですが)、当日電話かzoomに急遽変更という場合もあります。zoomについてはソフトの脆弱性が指摘されていますが、日々補強されていると思いますので使用しています。
電話カウンセリングもオンラインカウンセリングも対面カウンセリングと遜色ないとされる専門家の方もいらっしゃると思いますが、私はあくまでも代替手段として使っています。直接、場を共有して、非言語の伝わってくるもの、感じられるものを大事にしたいと思うからです。
とはいえ世界はこの事情です。IT関係者のある方は「コロナ後も人々の生活は“非接触”型になるだろう」と嬉しそうに語っていました。私の根拠のない読みではコロナ収束後当面は非接触が続くがいずれ人々はonlineに飽きるだろう…となっているのですが、しかし当面に対処しなくてはいけません。
というわけで自分でもonlineで心理療法を受けたりして経験値を積もうとしていますが、まあ、やはり対面とは全く違う。普通のカウンセリングやコンサルテーションはonlineでもカバーできそうですが、催眠などを使った心理療法はあまり向いていませんね。モニターのなかの心理療法家はやはり遠いのです。セッションタイムが切れた後は、1人部屋にポツンと残される、何とも言えない孤独感があります。
画面が50インチくらいになると違うのでしょうか、等身大だといいのか、そういう問題ではないのか…。SF映画のように人物だけが空間に出現できて、触れてみるまでは映像だとは分からない、となればまた異なるのかもしれません。
2020年05月02日
不自由な生活になって間もなく一月になります。
更に一月延びるようですが、鬱々と気力が湧かずに過ごされている方や、反対に今の方が生き易い、楽だと感じている方もいらっしゃれば、コロナ前後で生活が本質的には変わらないという方もおられます。コロナ前のライフスタイルによって影響は様々なのでしょう。
いずれにせよ、想像力を働かせて今一度、社会を見詰め直してみる時間を与えられているような気がしています。自分や自分が関係する集団以外の状況に、個々人のおかれた状況に、想像の翼を羽ばたかせてみることは大切なことだと思いました。