2017年05月26日
気付けば、先週の研修からまだ10日間くらいというのに、もう随分前のことのように思います。
あれから引き続き、あれやこれや、母性原理と父性原理ということについて考えていました。流行り?の“忖度”なんて、母性原理の表出なんでしょうね。日本は母性原理優位の社会である、ということは前回取り上げました。
簡単にそれぞれの特徴を書くと…
父性原理:論理的思考、言語によるコミュニケーション、法律や掟、ルール等の重視、個人主義、能力主義…etc.
母性原理:情緒的交流、場や空気を読むコミュニケーション、和を尊ぶ、集団主義、平等主義…etc.
どちらの原理にも長短あり、人の成長にはどちらも必要で、社会がどちらかに偏ると弊害が出てきます。
実は先週の研修でこんなことがありました。米国人の先生が「わかった?理解できましたか?」と度々聞いても、私たち大半の日本人は明確な返事をしません。そうすると先生が「あなたたち日本人が礼節を重んじる人たちだというのはよく知っています。でもアメリカでは、人から質問されたら yes か no を答える必要があります。ですので、言葉が出ない場合は、yes なら首を縦に、no なら首を横に振りましょう~♪」とおっしゃいます。
確か去年の講義でも同じことを言われました。でもなかなか変わらないのですね。一対一なら答えると思うのですが、集団だとなぜかシーンとしてしまう。これは誰でも経験のあることでしょう。国民性の違いといえば違いですが、ああ、これ(アメリカ人先生の教授の仕方)が、父性原理優位の社会なんだな…としみじみ思いました。言葉で伝えなければ何もならないわけです。
曖昧であやふやな態度であれば欧米社会ならば相手にされませんが、ここは講義なので先生もユニークに文化差を指摘してくれるのです。因みに「日本人は講義の5分前には着席していて感心する、宿題もしてくるし感心する」と褒めていました。私たちからすれば当然ですが、「イタリア人は講義開始20分しても揃わない、宿題をしてこない」とユーモラスにぼやいていました。これまた昨年もイタリア人学生のことをぼやいていましたから、よほど思うところがあるのでしょうか…。
私たちの社会が一体どういうところなのか、世界の国々と比較しながら、相対的に理解を深めていくことはとても大事なことだと思っています。
2017年05月17日
今日曜日、月曜日と神田で研修があり参加してきました。昨年と同じ、アリゾナ州フェニックスというアメリカの壮大な土地(ネイティブアメリカンが多く住んでいる土地)から来日された先生で、それだけで催眠の講義が何か特別なものに思えてくるのでした。ちょっとミーハーですかね?
ちょうど日曜日、神田明神のお祭り「神田祭」が開催されていて、神田駅周辺ではお神輿が幾つも担ぎ出されていました。世代は違うけれど、美空ひばりの「お祭りマンボ」を思い出します。悲喜こもごもの楽しい唄ですね。しかし、まあ、やはり神田は下町で活気がありますね。私はしっとりしたお祭りが好みなので少々気圧されながらも、ああ、これもトランス状態(変性意識状態)なのだな…と感心していました。
催眠とかトランスというと、何やら自分でも全く意図しないことを喋ってしまったり行動してしまったりという期待と不安を抱く人がいるようですが、それは違います。催眠は“焦点化された意識の状態“で日常生活に溢れており、心地よく楽しいものなのだということを今回の講義でも学ぶことができました。
↑掛け声と熱気はビルに吸収されながらも、商店街のほうでは盛り上がっていました。
2017年05月11日
爽やかというより、いささか暑い一日でした。
さて、GW期間中のぐうたら読書の続きで、また河合隼雄先生のものを読んでいました。このところ家というものを考えることが多かったものですから…。
「日本は母性原理優位の社会だ」ということは既に広く知られていることだと思いますが、母性原理と父性原理については何度学んでも学び足りないような難しさがありますね。
今回手にしたのは2004年の『父親の力 母親の力』。副題は、「イエ」を出て「家」に帰る、となっています。亡くなる数年前の著作で『家族関係を考える』よりもっと実践的で、各方面の臨床心理士からの質問に答える形式を取っています。そのためかやや散漫な印象でしたが、二つ合わせて読むとより理解が深まると思います。
手っ取り早く乱暴に言うと、日本は敗戦後、欧米に習った核家族と個人主義が急速に広まっていきましたが、それが形だけの個人主義であることからいろいろな歪みが生じています。個人主義というのは一神教に基づく徹底的な父性原理に基づいたものです。
父親は仕事や会社に縛られ、家事や子育てのほとんどが母親に委ねられ、父親の欠如が現代の様々な家族問題を引き起こしている要因なのだと過去盛んに言われていましたが、そもそも日本に父性などは存在しない。家父長制に基づく強権的な父親なども、あれは父性などではなく、あくまでもイエを守る母性社会の担い手に過ぎない。
この父性・母性ということについては、今の日本こそ、もっとしっかりと押さえておくべき重要な事柄のように思います。
父性というのは、世間の目を気にしたり長いものに巻かれろ的なのとは全く異なり、個人の判断によって主張し動いていくような力なのです。人を能力などによって裁断していく面もあります。一方、母性というものは、集団の調和を重んじるという長所がある反面、集団から外れる者を厭い、あらゆるものを吞み込んでしまうような短所があるのです。
父性と母性のバランスが、人が生きていく環境には必要なわけです。では、この中途半端な個人主義の時代を生きる私たち家族は、一体どうしたらいいのか。それは日頃から夫婦間、親子間で対話をする能力を磨いていくこと。そして時に衝突を恐れずに、実存的対決をはかれるようにすることだと説いています。実存的対決というと小難しいですが、魂と魂の本音のぶつかりあいとでもいいましょうか…。あとは良かったら読んで考えてみてくださいね。
2017年05月05日
連休にたくさん歩いてきました。言葉少なめに画像を…ということで。
鬱蒼とした林の下には、羊歯の群生がありました。元の写真はもっと暗いのです。
全体的に仄暗い山のなかを歩いていくと…
こんな可憐な花に出遭えたり…
最終的に体はギシギシ、膝も笑っていましたが、英気を養えました。
2017年04月30日
新緑の眩しい季節となってきました。
明日から5月。ゴールデンウイークってどんな祝日の集まりだったかしらと調べ、忘れないように題にしました。
この長いお休みを鬱陶しく思っている人、ほとんどお休みのない人、やることのない人etc. こんな時に読んでみては?と思えるような本を最近仕入れましたので簡単にご紹介します。仕入れたといっても、まあいつものようにクライアントさんが読まれた本を私も読んでみただけなのですが。
河合隼雄先生の『家族関係を考える』(1980)講談社現代新書で、1979年から1980年に書かれた論考をまとめたものです。「現代の日本の家族(西洋型ではない)とは一体どういうものなのか」「これからの家族の有り様とは」といったことが、日本型家族の変遷や本質に関する考察を踏まえながら、興味深く著されています。
夫婦の関係、親子の関係などに考えるところのある人は、自分を振り返ることに役立つしとても面白いと思います。家族関係にこうすればよいという特効薬などはありませんが、闇夜のなかの灯台のように感じられました。
またこれを読んでいくと、昭和とか、平和や社会とか、子ども、といったことに自然と繋がっていき、思考の裾野が広がっていきます。
現在は2017年。1979,80年代の家族やそれを取り巻く社会と比較しながら、更にどのような変化があるのかないのか、想像や思考の旅に出てみるのも一興ではないでしょうか…。
2017年04月16日
4月も半ばに入りましたね。朝晩も冷え込むことが薄れ、今朝は窓を開けて鳥の囀りを聞きながら朝食をとりました。処処啼鳥を聞く…、ささやかながら春を感じて幸せな気分になります。
さて、今日は以前取り上げた書籍『いじめのある世界に生きる君たちへ』(中井久夫著)のなかに出てきた「権力欲」ということについて、少し考えてみたいと思います。
人には睡眠欲、食欲、情欲のほかに、「他人を支配したい」という権力欲があり、この権力欲は他の欲と比較にならないほど多くの人々を巻き込むと述べられています。権力欲というより支配欲といったほうが私としては分かりやすいのですが、このあたりの事情は先生の他の文献を読む必要がありそうです。
また、暴力によってかろうじて維持される権力は、(権力として存続することが)危ういものであり、一度暴力で震え上がらせて、それ以降はいつでも暴力をふるえるぞということを示し、後は「自発的に隷従させる」ようにするのが権力側の人々の理想なのだと説いています。何とも巧妙というか怖い構造ですが、こういったことは古今東西の学者たちが時々に指摘している大変重要なことです。
中井先生はいじめ問題を軸に言及していますが、これは家、職場、地域、国といった組織においても同じことだと思います。
例えば家。家庭や家族というものは安らぎを与え楽しくて心地よいものだと思いたいものですが(それも事実ですが)、いやいや家のなかというものは実は怖いところでもあるのです。心理カウンセリングを受ける人というのはこの辺りの感覚が結構鋭敏で、家族間の葛藤を抱えて訪れる場合も多いですよね。
権力欲の究極的な発露である暴力や虐待というものが顕著に見られない家庭でも、例えば、なぜか父親(母親)が一番偉そうに振る舞っている。お金を稼いでくる人が一番偉いとされている。母親(父親)は弱々しいか愚痴っぽいかヒステリックに喚くことが多いので、家族はいつもその人を気遣って生活している。親の子どもに対する干渉が激しくそれを愛情とはき違えている、などといった支配の形は沢山見られます。
また父母に代わって祖父母や子どもが支配的な家もありますし、家族固有の価値観が強固に支配している家もあります。複雑で巧妙な力関係が相互に働いているので、もしかしたら家族の誰かが知らず知らず自分を押し殺しているかもしれないし、自発的に無意識に服従していることも多いと思います。家族の関係性が対等でfairでお互いが尊重し合っているというのが理想なわけですが、力の不均衡が生じやすいのが家族であり、その不均衡は家族のなかの一番弱いところへ影響を及ぼすのです。一本の樹に力がかかって、一番細い枝から折れるようなものです。
昨今騒がれている、親を敬うべし、兄弟仲良くすべし、夫婦睦まじくすべし…などというのは至極当然のことであって、そうではないことの方が多く、それを教条的に教えたところでどうこうなるものではありません。それに道徳的なことまで上から押しつけらて、ああ良いこと言っているなあと素直に取り込むのではなく、自分の頭で考えて模索しながら行動することの方が大切ではないでしょうか。おいそれと簡単に答えを出すものではありませんし、自分の頭を鍛えて多角的に考える、真摯に他者の意見に耳を傾ける、こういった力を身に付けることこそが、権力欲の構造から人を救う術になっていくのではないか…と考えています。
2017年04月13日
今年の桜。
来年も同じ樹の下に行ってみれば再び会えますが、一期一会です。