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男の子の成長譚4

2017年06月25日

ふぅ…。
日曜日も無事終わりました。強い雨の朝で始まりましたが、帰りにはすっかり上がり道路も乾いているようです。梅雨といっても一日ずっと雨のことは少ないのですよね。

さて、お休みに入る前にブログの更新を。前回に続き、『ジークフリート』にみられる男子の成長プロセスに起こることを少し書いてみたいと思います。

おそれを知らぬ若者、英雄ジークフリートは、大蛇を退治し、黄金の指環を手に入れた後、精霊の導きによって次の挑戦をすることになります。孤独なジークフリートは、心を分かち合える仲間を求めて、燃え盛る火で覆われた岩山に分け入ることになります。

何といってもおそれを知らぬので、その偉業も成し遂げます。しかし、そこには…。

岩山の頂には武装した人物が眠りについていました。その武装を一つ一つ解いてやると、何と今まで見たこともないような人間が…。彼は驚いて「お母さんっ!」と叫びます。以前、ある精神科医の先生が、人は絶対的なピンチになると「お母さん!」or 「神様!」と心の中で叫ぶものだと言っていましたが、なるほどそうだなーとこのシーンには笑えました。

横たわっていたのは、彼が今まで出会ったことのない「乙女」だったのです。物語の細かい筋は飛ばしますが、初めて女子を目の当たりにして、彼は恐れおののきます。動転、動揺のあまり、乙女を前に「もしかして僕のお母さんっ?!」とも叫びます。最初の「お母さん!」と後の「お母さんっ?!」の意味するところは全く違いますが、この辺りの心情は少なからず理解できますね。後者は少し切ない。ジークフリートは何といっても母の面影を知らずに育ってきましたから。

おそれを知らぬ彼は、こうして初めて自分とは異なる性の乙女を前にしておそれを体感します。このおそれとは、未知のものに対する恐怖であると同時に、不用意には接することができないような畏れを指すと思います。この後どうなるかはまた後日。これは余談ですが、私が今の若者たちにもっとあってほしいと思うものは、この畏れの感情でしょうか。もっと誠実に恋愛をして、相手に関心を持って、リスペクトの念を抱いてほしいものです。

気になる、英雄らしからぬジークフリートの顛末は次回に…。



男の子の成長譚3

2017年06月21日

さてさて、表題シリーズの3回目。
芸術作品から、人生や人間の成長を紐解いてみる…。

ワーグナー(1813-1883)作、黄金の指環奪還を巡る世界救済がテーマのオペラ『ジークフリート』。主人公の英雄ジークフリート、おそれを知らぬ若者はその後どのように成長していくのでしょうか。

彼は黄金の指環を守る大蛇を名剣で倒したとき、その蛇の血をサラッと舐めます。確か、触るだけでなく、舐めるのですよ。えっ?!気持ち悪いと思ったのをおぼえています。大蛇は実は巨人が姿を変えたものなので、人の血を舐めることになるのです。そして、その血が熱いことに驚き、大蛇退治の達成感だけでなく、言い表しがたい違和感のようなものを感じるのです。

血を舐めるというのは、一体どういったメタファー(暗喩)なのでしょうね。ジークフリートは強欲の象徴である蛇(人)殺しをして、悲しさのような、微妙な感情に襲われるのです。

また実際の両親を知らぬために、森の中で母や父を想うシーンがあります。印象としては特に母を強く想い、慕うのです。「お母さん、僕のお母さんは一体どこにいるのだろう…」と。こういう場面を観ていると、エディプスコンプレックス(母親を求めて、父親に抱く複雑な心理)の話として読み取るだけでなく、子どもの「出自を知る権利」というものも改めて考えたりします。

また子どもの成長過程によく見られる、「本当の優しいお母さん(お父さん)はきっとどこかにいるんだ」という強い幻想についても考えさせます。私も子どものころ半ば本気で想像していました。きっと本当の優しいお母さんは事情があって泣く泣く私を手放したんだと(笑)。ジークフリートの鍛冶屋のナヨナヨ狡猾継父は実父で、本当の両親は彼の妄想の産物だと物語を穿って眺めてみても面白いかもしれません。

剛腕で自信家のジークフリートは、複雑で繊細な感覚や感情を体験しながら、徐々に少年から青年へと成長していきます。

今回の舞台の指揮者が、英雄の成長は「暴力や血や殺人」という巨大な破壊力を伴うものなのだ、と説明していましたが、勿論これは半分譬えで半分は真実なのでしょう。英雄という部分は男子一般に置き換えてよく、思春期青春期の男子は(意識しようがしまいが)荒れ狂う精神のうねりの中で成長していくところはあると思います。(多少女子にもあると私は思いますけれど…。)

続く…。


 

 

 


男の子の成長譚2

2017年06月15日

6月も半ばになり紫陽花も見頃を迎えていますね。
↓は相談室近所のお花屋さんで買った紫陽花。今、街中は紫陽花も枇杷も真っ盛りで、手を伸ばせば届きそう…。

さて、前回に続き、ワーグナー作オペラ『ジークフリート』から、男の子の成長過程に必要なものの考察を簡単にしてみたいと思います。前回は「父殺し」について書きましたが、森の中で拾われた子ジークフリートはどのように英雄に成長していくのでしょうか。

彼は腕力も気力も備わり(文武の文は謎)、鍛冶屋の養父を小馬鹿にした生意気とも思われる10代の青年に成長していきます。養父も扱えない剣を一度壊して、再び剣として蘇らせ、自分しか使いこなせないものに仕立て上げる力のあるところなどは、既存のものを壊して新しいものを創り上げる人、即ち革命家としての才能を持っている人、というふうに解釈されています。剣の名前は…、ミスリルの剣のような印象の名前でしたが、忘れました。

でも何といっても彼の強みは「おそれを知らぬこと」。よって、黄金の指環をもつ大蛇退治に暗に担ぎ出されるのです。

けれども「おそれを知らぬ」というのは人間としてはだいぶ半人前です。己を知らぬことでもありますし、他者をなめてもいます。おそれというのは、恐れ、怖れ、畏れ、いずれも当てはまりそうですね。

まあ、10代、20代の若い人たちは悩みの裏にどこか万能感のような、そういった類のものが漂っていると思うことが多いのですが、では、このあとジークフリートはどうやって成長していくのでしょうか…。続きは時間が来たのでまた次回。


 


男の子の成長譚1

2017年06月04日

6月に入りました。
これからの時季、街中に色とりどりの紫陽花が溢れていきますね。

さて、先日は時間が取れたので、ワーグナー作のオペラ『ジークフリート』を鑑賞してきました。このブログでも度々取り上げているワーグナーのオペラ「ニーベルングの指環」の第三作目にあたる作品です。ピンとこない方も映画『ロード・オブ・ザ・リング』の世界観の大元と認識していただければ、想像が少しつくかと思います。「ニーベルングの指環」は権力の象徴である黄金の指環奪還をめぐる世界救済のお話で、全四作の中で様々な登場人物が出てきます。そのなかの一人がジークフリート。

ジークフリートというのは中世ドイツに伝わる大蛇退治の英雄のことで、この伝説などをもとに、一人の男性の成長譚を描いたのが『ジークフリート』です。日本ならば桃太郎、一寸法師、金太郎などの昔話を土台にしていると思えば何となく親しみが湧きますね。

桃太郎も一寸法師も話はとうに忘れてしまいましたが、この手のお話は「男の子の成長」という普遍的なテーマを扱っています。『ジークフリート』もしかり。一人の男の子が成長するにあたってどのような道筋を歩むものなのか…、成長の過程で何が必要なのか…という観点から眺めると、非常に面白く大変有益です。

ジークフリートは赤ん坊の時に森の中で拾われ、養父に育てられます。作品の中の養父は邪な人物で、この秀でた子どもが成長した暁には指環奪還の役を負わせて用が済んだら殺そうとしますが、そこを見破ったジークフリートに却って殺されてしまいます。ここに「父殺し」のテーマがあります。男の子は成長するときに象徴的な意味の父殺しをする必要があるのです。

「父殺し」というのは、絶対的なものを乗り越える意味、既存の価値観を壊して自分の価値観や自己を確立させる意味合いがあります。もっと心理学的にいうならば、畏怖や恐怖の対象である強力な父親像を乗り越えて、色々な意味で客観視できるようになることが必要なのです。

「うちの父親は家族を困らせてばかり、全く尊敬に値しない弱い人だったから、そんなことは当てはまらない」という場合でも、精神的な父殺し(父を乗り越えること)をする必要はあるのです。ジークフリートの養父も邪ではあるものの、ナヨナヨして、どこかユーモラスな鍛冶屋として描かれています。乳飲み子の赤ん坊を男一人で育ててそれなりに苦労したと思われるのに、息子からは嫌悪感を抱かれ嘲られ馬鹿にされ、少々気の毒でもあります。

今日は長くなったので、続きはまた。でもこの父殺し。私は女の子の成長にも必要なことだと思うのですが、男の子は父親と同性である分ずっと精神的な距離が近くなってしまうから、普遍的なテーマなのでしょうね。

a flog in a pond

 


父性原理と母性原理

2017年05月26日

気付けば、先週の研修からまだ10日間くらいというのに、もう随分前のことのように思います。

あれから引き続き、あれやこれや、母性原理と父性原理ということについて考えていました。流行り?の“忖度”なんて、母性原理の表出なんでしょうね。日本は母性原理優位の社会である、ということは前回取り上げました。

簡単にそれぞれの特徴を書くと…

父性原理:論理的思考、言語によるコミュニケーション、法律や掟、ルール等の重視、個人主義、能力主義…etc.
母性原理:情緒的交流、場や空気を読むコミュニケーション、和を尊ぶ、集団主義、平等主義…etc.

どちらの原理にも長短あり、人の成長にはどちらも必要で、社会がどちらかに偏ると弊害が出てきます。

実は先週の研修でこんなことがありました。米国人の先生が「わかった?理解できましたか?」と度々聞いても、私たち大半の日本人は明確な返事をしません。そうすると先生が「あなたたち日本人が礼節を重んじる人たちだというのはよく知っています。でもアメリカでは、人から質問されたら yes か no を答える必要があります。ですので、言葉が出ない場合は、yes なら首を縦に、no なら首を横に振りましょう~♪」とおっしゃいます。

確か去年の講義でも同じことを言われました。でもなかなか変わらないのですね。一対一なら答えると思うのですが、集団だとなぜかシーンとしてしまう。これは誰でも経験のあることでしょう。国民性の違いといえば違いですが、ああ、これ(アメリカ人先生の教授の仕方)が、父性原理優位の社会なんだな…としみじみ思いました。言葉で伝えなければ何もならないわけです。

曖昧であやふやな態度であれば欧米社会ならば相手にされませんが、ここは講義なので先生もユニークに文化差を指摘してくれるのです。因みに「日本人は講義の5分前には着席していて感心する、宿題もしてくるし感心する」と褒めていました。私たちからすれば当然ですが、「イタリア人は講義開始20分しても揃わない、宿題をしてこない」とユーモラスにぼやいていました。これまた昨年もイタリア人学生のことをぼやいていましたから、よほど思うところがあるのでしょうか…。

私たちの社会が一体どういうところなのか、世界の国々と比較しながら、相対的に理解を深めていくことはとても大事なことだと思っています。

Bridge


5月の街角

2017年05月17日

今日曜日、月曜日と神田で研修があり参加してきました。昨年と同じ、アリゾナ州フェニックスというアメリカの壮大な土地(ネイティブアメリカンが多く住んでいる土地)から来日された先生で、それだけで催眠の講義が何か特別なものに思えてくるのでした。ちょっとミーハーですかね?

ちょうど日曜日、神田明神のお祭り「神田祭」が開催されていて、神田駅周辺ではお神輿が幾つも担ぎ出されていました。世代は違うけれど、美空ひばりの「お祭りマンボ」を思い出します。悲喜こもごもの楽しい唄ですね。しかし、まあ、やはり神田は下町で活気がありますね。私はしっとりしたお祭りが好みなので少々気圧されながらも、ああ、これもトランス状態(変性意識状態)なのだな…と感心していました。

催眠とかトランスというと、何やら自分でも全く意図しないことを喋ってしまったり行動してしまったりという期待と不安を抱く人がいるようですが、それは違います。催眠は“焦点化された意識の状態“で日常生活に溢れており、心地よく楽しいものなのだということを今回の講義でも学ぶことができました。

オフィス街のお神輿

↑掛け声と熱気はビルに吸収されながらも、商店街のほうでは盛り上がっていました。


家族とは何か

2017年05月11日

爽やかというより、いささか暑い一日でした。

さて、GW期間中のぐうたら読書の続きで、また河合隼雄先生のものを読んでいました。このところ家というものを考えることが多かったものですから…。

「日本は母性原理優位の社会だ」ということは既に広く知られていることだと思いますが、母性原理と父性原理については何度学んでも学び足りないような難しさがありますね。

今回手にしたのは2004年の『父親の力 母親の力』。副題は、「イエ」を出て「家」に帰る、となっています。亡くなる数年前の著作で『家族関係を考える』よりもっと実践的で、各方面の臨床心理士からの質問に答える形式を取っています。そのためかやや散漫な印象でしたが、二つ合わせて読むとより理解が深まると思います。

手っ取り早く乱暴に言うと、日本は敗戦後、欧米に習った核家族と個人主義が急速に広まっていきましたが、それが形だけの個人主義であることからいろいろな歪みが生じています。個人主義というのは一神教に基づく徹底的な父性原理に基づいたものです。

父親は仕事や会社に縛られ、家事や子育てのほとんどが母親に委ねられ、父親の欠如が現代の様々な家族問題を引き起こしている要因なのだと過去盛んに言われていましたが、そもそも日本に父性などは存在しない。家父長制に基づく強権的な父親なども、あれは父性などではなく、あくまでもイエを守る母性社会の担い手に過ぎない。

この父性・母性ということについては、今の日本こそ、もっとしっかりと押さえておくべき重要な事柄のように思います。

父性というのは、世間の目を気にしたり長いものに巻かれろ的なのとは全く異なり、個人の判断によって主張し動いていくような力なのです。人を能力などによって裁断していく面もあります。一方、母性というものは、集団の調和を重んじるという長所がある反面、集団から外れる者を厭い、あらゆるものを吞み込んでしまうような短所があるのです。

父性と母性のバランスが、人が生きていく環境には必要なわけです。では、この中途半端な個人主義の時代を生きる私たち家族は、一体どうしたらいいのか。それは日頃から夫婦間、親子間で対話をする能力を磨いていくこと。そして時に衝突を恐れずに、実存的対決をはかれるようにすることだと説いています。実存的対決というと小難しいですが、魂と魂の本音のぶつかりあいとでもいいましょうか…。あとは良かったら読んで考えてみてくださいね。

表紙はパウル・クレーの『母と子』

 


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