2015年08月30日
一週間無事に仕事を終えることができ、日曜日の晩はまとめやら何やらついついオフィスに長居してしまいます。
最近は自己メンテナンスの一環で?、仕事後に焙煎豆の珈琲を自分のためにゆっくり淹れたりして、ぼーっと過ごすことが多くなってきました。
そして今晩は、ずーっと自分のことにかまけて怠けていた、文通相手の8歳の少女に手紙を書いていました。でも出すのは休み明けの火曜日。英文を見直して、ささやかなプレゼントを詰めて、それからです。少女は字を学んでいる最中なので、その子とさほど歳の変わらない姉や従姉妹が代筆してくるのですが、これが面白いのです。主語の I(アイ)が、誰のことを指すのか次第に分からなくなってくるので、子供らしくて可愛いなぁ…と温かい気持ちになります。言語は英語ではないので私はボランティアの方が翻訳してくれた英文を読んでいるのですが、多分ボランティアの方も混乱しているのでしょう(笑)。
やっと手紙を書く気になったのは、飲んでいた珈琲の国の子だったから。長らく御無沙汰していた罪の意識が少しヒリヒリしていたのでした。まだまだ開発途上の国の子供たち。学ぶ環境どころか生活環境が日本のようには整っていないなか、今頃何をしているのかな…と気になります。
2015年08月23日
手帳を繰っていたら、今日は二十四節気の「処暑」なのだとか。
「暑い処(ところ)」かと調べたら(季節的にまさかね)、処は「ある場所におく」「しかるべく取り捌く」ということで、暑さがやむ、という意味でした。朝夕冷気が加わってくるのだそう。まあ一頃に比べればかなり涼しいですね。
それより最近目ならぬ耳を引くのが虫の鳴き声。日に日に増してきて、そこはかとなく秋の気配を感じます。そして何となく寂しくなる今日この頃…。
↑ 吾亦紅、益々寂しくなるので…
↑ 100日楽しめる、百日草
2015年08月14日
カメラを忘れたので画質は悪いのですが、畑の中に向日葵の一群があって、曇り空の下すくっと力強くとても綺麗に咲いていました。
明日は8月15日。この日に何を考えるのか。
九段に近い相談室界隈、明日また街宣車の「がなり声・怒鳴り声」が撒き散らされるのかと思うと、うんざりどころか腹立たしくなります。この間のセッション中もクライエントさんと苦笑いでした。あれは絶対100デシベル以上。断続的に中断され、ご迷惑をお掛けしてしまいました。何に言及しているのか間違われると困りますが、今国会前の活動、あれはシュプレヒコールなので性質が全く異なるものですね。
2015年08月09日
駱駝3頭+子駱駝1頭+愛犬1匹+女子1人のオーストラリア砂漠横断のロードムービー。
と聞けばいてもたってもいられなくなり、有楽町スバル座へ観に行ってきました。
邦題は『奇跡の2000マイル』、原題は『 Tracks 』。原題の方がずっとシンプルにこの映画の伝えたかったことを表していると思いました。
鑑賞後にネットの口コミを読みましたが、日本での評価はあまり芳しくなさそう…。
「この旅の意味がわからない」「無謀な若い女の子の冒険で、不必要に動物が殺されていった」という感想もあり、それはそれで理解できました。確かにね…。
どこに行っても自分の居場所はないと思い、若い世代の集まりのなかでも疎外感を感じている女の子が、いっそ思い切って場所を変えてみようと約3000キロの砂漠横断の旅に出ます。住み込みで働きながら駱駝(必要物資の運搬用)の調教を習い、徒歩で約半年かけてインド洋に到達する計画です。華奢な体の女の子が巨大な駱駝たちを連れて、熱砂の砂漠を踏破するのです。
ナショナルジオグラフィック誌の時々の写真撮影が条件で資金提供が成され、数週間おきにカメラマンと落ちあいますが、ほぼ単独での冒険で1970年代の実話です。
観ていて思ったのは、この女の子がこの先、人生を生きていくにはこの冒険が絶対的に必要であった、ということでした。彼女の幼少時の心の傷が大変深いこと、それを乗り越えるには大自然と向きあう生死を賭けた苛酷な冒険が必要であったことが、映画の所々から容易に伝わってきます。
パンフレットがいけないなぁと思います。このての映画になると、すぐに「奇跡」とか「自分探しの旅」などの美辞が並べられるのだけれど、大冒険の途中や目的地に「キラキラした本当の自分」なんかが転がっているわけではないのです。あるとしたら「こういうtracksをつけてきた自分」というものが、新たにその人を作り上げる一つの要素になるのだと思います。
それにしても冒険というものは魅力です。お風呂とトイレの心配がなければいいなあ…。
まあ、これほどの冒険や旅ではなくても、一日や数日の旅でも、意味深い時間にはできるのだと思います。
2015年08月05日
昨夜はさんざんな?一晩でした。
またもやJRの事故による運行停止と遅延。はぁ〜、くたびれた。
不測の事態はしょうがないにしても、なぜこうも再開に時間がかかるのか。譲って時間がかかるのは仕方ないにしても、アナウンスがいつも曖昧。「再開には相当時間がかかる見込みです」。この相当って一体何十分?何時間を見込んだらいいのだろう?これによって他線に乗り換えるべきか否か、帰るのを諦めるべきか否か判断するのに、いつも「相当時間」 or 「かなりの時間」。
また最初のアナウンスでは、「止まった電車の乗客が線路に降りたとの情報が入ったため、安全確認に相当時間がかかる」と言っていった。確かにそう言っていた。これを解釈すると、業を煮やした乗客が勝手に降りて安否不明?、という風に聞こえなくもないのだけれど、実際は違ったらしい。線路上で止まった3本の電車から、乗客たちを最寄り駅まで歩いて退避させたのだとか。はぁ?
結局4時間弱かかり午前様に。
この種類の事故なら再開まで目安何時間、とかないものでしょうかねぇ。昨日今日鉄道が始まったわけじゃなかろうに…。
しかし…、他の乗客はほとんど皆、スマホやらタブレットをいじりながら静かに待っていました。何時間も立ちっぱなしで文句一つ言わず。
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2015年07月29日
シネスイッチ銀座へ映画『アリスのままで』を観に行ってきました。
50歳の高名な言語学者の女性が若年性アルツハイマー病に罹るストーリーです。アルツハイマーの高齢者は仕事において接触していたことがあったので、随分キレイに描きすぎているんじゃないの〜?と思うところもありましたが、静かに描かれているところが却って良かったなと思われる作品でした。
家族の苦悩、特に配偶者の苦悩はほとんど取り上げられていません。主人公が50歳で、夫とは学生結婚らしき設定を考えると、夫にとってもっと切実な出来事なんじゃないかと思いますが、よくできた愛の深い配偶者です。(できすぎの感も?)
3人の子供達の苦悩も詳しくは描かれていません。家族遺伝性のため50%の確率で子どもに遺伝し、陽性であれば必ずや発症するとのことですが、長女は陽性、長男は陰性、次女は検査を受けず…、長女は双子を出産…とそれぞれの選択が間接的に描かれています。
主人公はあくまでもアリス。
アリスの台詞で、「私は今まで知性や言葉というものによって自己規定してきたけれど、それが今失われていくのよ」というものがありました。これは本当に興味深く、常々考えているところでもありました。
「私」という存在は、一体何者なのか?
名前、性別、年齢、職業、結婚や子供の有無…etc.
こういったものの意味が薄れていったら、認識できなくなったら、「私」というものはどう規定できるのか?「私」というものは、そもそも流動的で、関係性のなかで規定されるものなのかもしれないけれど…。
「ビッグイシュー日本版(5/15号)」のインタビュー記事のなかで、アリスを演じたジュリアン・ムーアが、「多くの若年性アルツハイマーの人たちを取材するうちに、”自分”というものが完全に無くなってしまうようには思えなかった」ということを言っていました。
この作品を観られた方は、どう思われるでしょうか…。
2015年07月25日
蒸し暑さのせいか気持ちがくさくさするので相談室ご近所のお花屋さんで向日葵を3本買ってきました。
本当はゴッホの絵のように燃えるような感じに飾りたいのだけれど…。