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心理 東京
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ブログ 心's LOOM
私と「私」
2012年12月23日
アナザープラネット(2011仏、原題:another earth)という映画を観ました。
登場人物たちが暮らす地球に、あるとき、一つの惑星が徐々に接近してきます。
それは昼夜問わず月の横に見えて、地球そっくりの星。青と白のマーブル模様の球でとても美しく輝いて見える。映画の進行にそって、科学者たちがその星と交信できるようになると、それはなんともう一つの地球、つまりパラレルワールドではないか?ということが判明してきます。Aさんという人が地球にいれば、もう一つの地球にも「Aさん」がいるというわけ。でもここまでは映画の伏線。
物語の軸はSF映画ではなく、とてもシリアスなヒューマンドラマです。10代のエリート学生の女の子が、羽目を外したパーティーの帰りに飲酒運転をし、ある一家が乗る車に激突し妻(妊婦)と幼い子供の命を奪ってしまいます(辛うじて夫は助かります)。
彼女の人生は一変します。服役し、大学を辞め、街の高校でクリーンスタッフとして働き始める。自分を人生の落伍者だと思い、罪悪感も強く、心を閉ざした生活を送ります。そんなあるとき、この夫のことを知り、贖罪の気持ちから身分を偽って彼の家で掃除婦として働き始めます。この夫も、愛する家族を失った悲しみと怒り、そして恐らくは一人だけ生き残ったという罪悪感から、酒浸りの自暴自棄な生活を送っています。映画ではこの二人の交流が主に描かれていきます。
さて「もう一つの地球」のほうは…。
地球の人間(私)がもう一つの地球の人間(「私」)と交信できるということは、そこに差異(ズレ)が生じているということになります。全く同じ人が全く同じ事をしているのなら、私と「私」は会話できませんから。そこで主人公の女の子は、こう考えます。もしかしたら、もう一つの地球は完全なパラレルワールドではなく、そこへ行けばまだ事故は起きていないかもしれないと。折しも、宇宙開発事業団のような機関が、もう一つの地球へ行く民間人の宇宙飛行士を募ります。見事女の子はそのチケットを入手し…。
興味のある方は観てください。でもあくまでもこの映画は、深いヒューマンドラマだと思うのです。
加害者の主人公の女の子は自分を許していない。被害者である夫も自分を許していない。二人とも過去に生きているし、前を向いて生きたいと思う自己と、否定的な自己に分裂してしまっている。物語は、どちらの二人も、自分を統合していくための旅のような気がするのです。映画の結末は幾重にも意味がとれるようなのですが、味わい深い作品です。
世界の眼
2012年12月19日
今年も残すところ約2週間。
日曜日には総選挙がありました。
政治的な意見はブログの趣旨ではないので省くとして、その翌日の月曜日に「世界の主要メディア(公共放送)が日本の総選挙をどのように伝えているか」を興味をもって見ていました。
隣国の韓国と中国は日本の右傾化を憂慮しながらも案外冷静な放送。
後は、カタールのアルジャジーラ放送と確かフランスかオーストラリアの国が日本の衆院選をとりあげているばかりで、アメリカはじめイギリスなどの国は銃乱射事件のほうがトピックでした。
トップが6年で7人も変わる日本の選挙について、国際社会はどうも関心が薄いとのことです。
海外の記者たちのコメントも、「3年ちょっとで結果が出ないからといって、どうして50年続いた政党に戻るの?」「あの原発問題はどこへいってしまったの?」etc.、日本の民意はフシギ…、といった空気が伝わってきました。
なんでも「ワイルドだろぉ」というのが今年の流行語大賞とのことですが(聞いたことないし面白くもないのだけれど…)、使われている文脈を考えると、今の日本にしっくりくるのかもしれません。
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↓美しかったのでプロの画像より。
dried persimmon
2012年12月13日
最近めっきり寒くなってきて、早朝も夜もストーブの温度がなかなか上がりません。
今年は試みに、干し柿を初めて作ってみました。今は、原形から半分ぐらいの大きさに縮み、黒色に変化し、まだ窓外につるしてあります。雨ニモマケズ、強風ニモマケズ、地上に落ちたこともあり、冬の寒さにも耐え…etc.
けなげな干し柿なのですが、あの白く粉を吹く感じは、どうやったらなるのでしょうか…。なにしろ渋柿をいただいたので、そのまま食べるわけにもいかず、見よう見まねで試したものの…。
干し柿やあんぽ柿などを発明した昔の人は偉いなと思います。
食べられないものを食べられるものにしたところが何より凄いし、甘柿(ふつうの柿)を陽のもとにつるしても渋柿ほどには甘くならないのだそうです。
渋いものもいつかは熟れて甘くなる。人生も?
さて、うちの干し柿はどうなるだろうか…。できたら画像を。
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マインドフルに。
2012年12月06日
街中が気忙しくなってきましたね。
こんな時こそと思い、今、マインドフルネス瞑想に try しながら過ごしています。昨今流行のマインドフルネス。
「あるがままのものごとに意図的に、現在の瞬間に、非価値判断的に、注意を払うことによって現れてくる気付き(意識)」
のことをいうようです。マインドフルネスの反対はマインドレスネスだとか。「心ここにあらず」、でしょうか。
この瞑想は以前1時間くらいの実践講義に参加したことがあるくらいで、今一つつかみどころがなかった…。
最近改めて興味をもったのは、書店で大きく売られているのと、学生の時に習った先生の訳本だったという、懐かしさからでした。瞑想のCD付なのですが、その吹き替えの声がとても懐かしく柔らかく心地よく、CDのガイダンスにあわせて瞑想しながら、思考は当時へと彷徨います。
でもね、注意を「思考」から「現在の瞬間(呼吸や体の感覚)」に引き戻すのが瞑想とのこと…。なかなか難しいのですが…。
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今日はプロの画像を…。
惻隠の情
2012年12月03日
今日は辞書を片手に…。
ねこ砂の掃除に古新聞を使っているので、時折古い記事に目がとまることがあります。およそ一年前の記事に、ある数学者が書いた「これからの日本のあり方」のようなものがありました。
それを読んで初めて知ったのが、「惻隠(そくいん)の情」という言葉。
3.11以後、忍耐、譲り合い、思いやり、支援やボランティア精神など、惻隠の情で日本中が満たされた、と著者は言っていました。
「惻隠」とは、漢和辞典を引いてみたら、「①いたむ。かわいそうに思う。悲しむ。②真心を尽くすさま」。
もう少し詳しい辞典を調べてみると、「惻(いたむ)」の解字(忄と貝と刂から成り立っていますね)は、「食器(貝)のそばに刀(刂)をくっつけて置いたさま。心にひしひしとくっついて離れないこと」とありました。食器の傍らに刀を置く、ということは何を意味するのでしょうかね…。すぐに出陣、ということでしょうか。惻隠は、同情とも憐憫ともニュアンスが違うように思いました。
そしてその数学者曰く、今後の教育について、「英語教育とIT(情報技術)教育を小さいときから身につけなければ国際競争に負ける、というのは間違っている。効率重視の経済偏重主義は格差社会を生み、国語教育(読書も含む)に力を入れなければ、国際社会の多様性は失われ、歴史から学んだり大局的なものの見方ができなくなり、もののあはれや情緒を解することができなくなっていくだろう」ということでした。これには同感で、その国の言語や国語教育が貧しくなれば文化や人心が色褪せ、多様性という豊かさが失われていくのだろうと思いました。
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夜
2012年11月29日
日々冷え込んできました。
年末商戦の前哨戦なのか、隣の文具店では屋外での大売り出しが始まっており、店員さんの掛け声やらくじ引きの鈴の音やらで少々うるさくなっています。
空気が益々澄んでくると、光や音などの刺激がくっきり鮮明になります。
毎日帰宅するときの星空や月がとてもきれいだし、未明も、どこか遠くのお寺の鐘音がよく聞こえてきます。朝6時に鳴るのですが、これが6つ鳴るのか幾つ鳴るのか、うつらうつらしていつも行方を追えなくなります。
クリスマスやお正月の年末の雰囲気が苦手な方も少なからずいると思いますが、私もある部分においては醒めている。そのかわり、冬至に向かっていく、この時期の澄んだ空気を楽しんでいます。
↑ 3本に分かれた杉の木。三位一体(Trinity)にあらず?なにしろ神社にある木なので。
黄色い星
2012年11月24日
外気が大分寒くなってきましたね。温かいものが美味しい季節となりました。
たまにはちゃんとしたものをと思い(映画の話)、昨夜は『黄色い星の子どもたち』(2010仏)という作品を観ました。原題は『 La Rafle 』、英語だと「 The Round Up」 で、「一斉検挙」の意。いつも思うのですが、洋画の原題は直截(せつ)的です。日本の題名の方が情感がありますね。
この映画は、1942年7月にナチスとフランス政府によって、パリに暮らすユダヤ人1万3000人が一斉に検挙されたヴェル・ディヴ(冬季競輪場)事件について扱っています。男性だけでなく、女性や子ども、赤ん坊までが一度冬季競輪場に収容され、最終的にはポーランドの絶滅収容所へ送られてしまいます。
黄色い星、というのはユダヤの星のこと。
1942年6月より、6歳以上のユダヤ人は、黄色の星を衣装に付けることを義務づけられます。
ヴェル・ディヴ(冬季競輪場)事件というのは、1995年に初めてこの事件に対するフランス政府の関与をシラク政権が認めたとのことでした。それまではナチスだけの仕業にされていたのですね。
こういう話は「過去の出来事」なのではなく、形を変えて繰り返されていくことが非常に恐いことなのだと思います。犠牲者が加害者に、加害者が犠牲者に、くるくると役割を変えながら。映画のなかでは迫害に荷担するフランス市民たちがいれば、身を投げうって動く善良なフランス市民もいる。そうではあるけれど、犠牲になった人たちの魂はいつか救われるのだろうか…、と重い気持ちになりました。