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ブログ 心's LOOM

桃源郷のような

2013年04月12日

春の風景を見つけたので…

杏源郷でした。


杏畑






銀座シネパトス

2013年04月05日

歌舞伎座が新しくなりこけら落としとなったようですね。歌舞伎については、どうしてもコントに見えてしまうので一度しか観たことがないのですが、新しくなった建物をいつかは観たいものです。

それより先日知った、45年間続いた「銀座シネパトス」閉館のニュース。東銀座にほど近いところにあった、地下の映画館。随分昔、疲れたときやサボタージュしたいときに一人で行っていた映画館でした。マイナーな邦画などが多かったような…。

古い寂れた地下にある映画館で、地下へ向かう階段を下りていくと、赤提灯なんかが多く、昼間からおじさんかお店の人かわからない男性たちがうろうろしていました。有楽町駅線路下の飲み屋街のような、昭和の空気漂うくたびれた趣のところでした。映画館はその一角にあり、鑑賞中、地下鉄(日比谷線?)が通ると音がよく聞こえなかった記憶があります。でもそれは、もしかしたら別の映画館だったかもしれない。

とにかく都会のあなぐらみたいなところで、昼間は人も少なく、映画を観て存分に泣いても大丈夫。不協和音に満ちた日常から遊離した空間であったのは確かでした。この跡地は一体何になるのでしょう…。


月






相克

2013年03月31日

先日初めて観たヴェルディ作のオペラ『アイーダ』。ジェラシー(嫉妬)と愛の相克の壮大な物語でした。

舞台は古代エジプト。主な登場人物は、エジプトの王女アムネリスと軍隊指揮官のラダメスとエチオピアの王女アイーダ。アイーダは奴隷として王女アムネリスに仕える身であり、身上を伏せて生活しています。

物語の核は三角関係で、王女はラダメスのことが好きなのに、ラダメスとアイーダは密かに愛し合っている。王女は、ラダメスと自分より身分の低いアイーダが相思相愛なのに薄々感づき、次第に嫉妬の炎を激しく燃え上がらせていきます。〈嫉妬の思いが私の身を苦しめる〉と切々と歌うシーンは大変胸を打つものがあります。

やがてエジプトはエチオピアを完全制圧し、武勲を立てたラダメス諸共、凱旋の歓喜にあふれかえります。その陰には、祖国の陥落を悲しみながら、ラダメスに対する愛情に苦しむアイーダがいます。ラダメスを愛することは祖国を見限ることなのですから。

ラダメスは戦勝をおさめたことから祖国エジプトへの愛国心を募らせていき、いつか奴隷身分のアイーダと一緒になりたいと願っていますが、やがてアイーダの素性を知ることで運命が大きく変わっていきます。

王女アムネリスは、自分を妻に選ばなかったラダメスに対する怒りと嫉妬と、嫉妬に駆られたアムネリスの行動が発端で祖国エジプトを裏切ったかどでラダメスが処刑を免れざるをえなくなったことに、深い苦悩と絶望、悲嘆の感情にとらわれていきます。

物語は展開だけを見れば悲劇的な結末を迎えます。
地下牢に生き埋めになったラダメスと、先にそこに潜んでいたアイーダは、死の床で永遠に結ばれるのです。

三者とも、ある感情と、それに衝突する感情の狭間で、激しく揺れ動き、苦悩しますが、最後は、王女アムネリスの祈り(愛)によってこの悲劇が昇華されるように見て取れたのは、美しく清らかな最終幕の演出のせいでしょうか。

ラダメスとアイーダが地下牢でも一緒だとアムネリスが知ったならば、アムネリスの心情はいかに?更に嫉妬の業火に苦しむのか、或いは己の罪深さに苦しむのか、それは一体どうなのでしょう?…と思いましたが、作者がそうはしなかったところに「人間という存在への信頼と愛」を感じたのでした。

さくら






時間

2013年03月26日

今年は桜をほとんどまともに見ていません。
まあ、こういう年もありかなと…。
唯一、仕事の後一日、夜桜を見に千鳥ヶ淵まで歩きました↓。暗闇過ぎてなぜかあまり感動せず、すぐに退散。水面に映っている桜をとったつもりなのですが。

夜桜.JPG 

↓こちらは去年の千鳥ヶ淵。
kozonosakura.JPG

円環的時間と直線的時間の交差。
こうして花によって、また一年経ったのだな…としみじみ思います。










2013年03月21日

とてもきれいなプロの画像があったので掲載…

桜並木




『ルイーサ』

2013年03月17日

今日の話題は映画。

その題は『ルイーサ』。2008年のアルゼンチン映画です。上映当時の日本語ポスターの字幕は、”ドン底から立ち上がる”。夫と娘に先立たれ、唯一の心の友、猫のティノとつましく暮らし、2つの仕事を掛け持ちで淡々とこなし、まるで歩く時計のように行動も身なりもきっちりした、だけど周囲の人に心を閉ざした生活を送っている60歳の女性、ルイーサの物語です。

そんな彼女の大事なティノがある日突然死んでしまう。と同時に、2つの仕事をいきなりクビにされる。残されたお金は数百円。大都市ブエノスアイレスのアパートメントに暮らす身にとって、猫の埋葬場所はなく、火葬代さえない。さて、どうするのか!

危機的な状況からルイーサの奮起が始まるのですが、えっ?!と、驚くような行動に出て行きます。必然的に人との関わりも生じ、自分を変えることにつながっていく。
経済格差がとても激しく治安も非常に悪く、別にめでたしめでたし大ハッピーエンドのお話ではありませんが、観ているとじわじわと体の底から生きる勇気が湧いてくる映画でした。作品全体にユーモアが漂っているので、ただの悲惨な話ではないのです。

私は少し前にこの映画を観たのですが、どうして今ご紹介したのかというと、ご存知のようにローマ・カトリックの新法王にアルゼンチン・ブエノスアイレス出身のベルゴリオ枢機卿が選ばれフランシスコ1世を名乗ることに決まったというニュースが報じられていたことによる、勝手な連想からでした。新法王は自国の貧困問題に力を注いできた人だとか…。この作品は貧困がテーマではないのですが(底流にはありますが)、人間の底力と、人が変わるには人との出会いがいかに大きく影響を与え合うものなのか…、ということを考えさせる、とても温かい気持ちにさせるものでありました。


泳ぐアヒル






ことば2

2013年03月13日

またもやことばのはなし。言葉遣いの話。

最近読んだもののなかに、障害者の人たちが、障害にたいする偏見や差別の問題とどう取り組んでいくか、というような記事がありました。そのなかで、障害→障がい、もしくは障碍、と表記を変えたほうがいいのではないか、というメディア側の思案する様子も伝えられていました。既に自治体によっては、「障がい」で統一しているところもあるようです。

精神医療や臨床心理の世界でも「〇〇障害」という形でこの言葉は多用されています。個人的経験では、既に何年も前から「障がい」という言葉遣いをする教員もいました。(ややこしくなるのでここでは障害に統一します。)

ほどなくして読んだ対談に、よく知られたライターの男性(ご自身も身体障害のある方)が、「障害を障がいにしたからって現実が変わらなければ何もならないし、”障がい”と使っている人の、私って人権意識が高い、とでもいいたいようなところが感じられる」というような発言をしていたのがありました。実際にはもっとくだけた表現でしたが。

似たような意見は、以前読んだエッセイにもありました。評論家の白洲正子という人が、「”めくら”で何が悪い。盲(もう)と呼んだからといって差別がなくなると思っているところが間違っている」ということを言っており、なるほどと一部共感しつつ、でもかなりの強硬発言にショックを覚えました。白洲正子という明治の人は、華族出のたいそう矍鑠とした老人だったので、その人に弱者の痛みがわかるのか…という思いもありました。

この障害/障がいの問題については、正直どうしたらいいのかまだよくわからないし、今後どうなっていくのか気になります。言葉を単に変えたからといって現実が変化しなければ意味がないし、言葉を変えることで人々の意識が少しずつ変わっていくこともあるのではないだろうか…、とも思うからです。


合歓木






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