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ブログ 心's LOOM

『ルイーサ』

2013年03月17日

今日の話題は映画。

その題は『ルイーサ』。2008年のアルゼンチン映画です。上映当時の日本語ポスターの字幕は、”ドン底から立ち上がる”。夫と娘に先立たれ、唯一の心の友、猫のティノとつましく暮らし、2つの仕事を掛け持ちで淡々とこなし、まるで歩く時計のように行動も身なりもきっちりした、だけど周囲の人に心を閉ざした生活を送っている60歳の女性、ルイーサの物語です。

そんな彼女の大事なティノがある日突然死んでしまう。と同時に、2つの仕事をいきなりクビにされる。残されたお金は数百円。大都市ブエノスアイレスのアパートメントに暮らす身にとって、猫の埋葬場所はなく、火葬代さえない。さて、どうするのか!

危機的な状況からルイーサの奮起が始まるのですが、えっ?!と、驚くような行動に出て行きます。必然的に人との関わりも生じ、自分を変えることにつながっていく。
経済格差がとても激しく治安も非常に悪く、別にめでたしめでたし大ハッピーエンドのお話ではありませんが、観ているとじわじわと体の底から生きる勇気が湧いてくる映画でした。作品全体にユーモアが漂っているので、ただの悲惨な話ではないのです。

私は少し前にこの映画を観たのですが、どうして今ご紹介したのかというと、ご存知のようにローマ・カトリックの新法王にアルゼンチン・ブエノスアイレス出身のベルゴリオ枢機卿が選ばれフランシスコ1世を名乗ることに決まったというニュースが報じられていたことによる、勝手な連想からでした。新法王は自国の貧困問題に力を注いできた人だとか…。この作品は貧困がテーマではないのですが(底流にはありますが)、人間の底力と、人が変わるには人との出会いがいかに大きく影響を与え合うものなのか…、ということを考えさせる、とても温かい気持ちにさせるものでありました。


泳ぐアヒル






ことば2

2013年03月13日

またもやことばのはなし。言葉遣いの話。

最近読んだもののなかに、障害者の人たちが、障害にたいする偏見や差別の問題とどう取り組んでいくか、というような記事がありました。そのなかで、障害→障がい、もしくは障碍、と表記を変えたほうがいいのではないか、というメディア側の思案する様子も伝えられていました。既に自治体によっては、「障がい」で統一しているところもあるようです。

精神医療や臨床心理の世界でも「〇〇障害」という形でこの言葉は多用されています。個人的経験では、既に何年も前から「障がい」という言葉遣いをする教員もいました。(ややこしくなるのでここでは障害に統一します。)

ほどなくして読んだ対談に、よく知られたライターの男性(ご自身も身体障害のある方)が、「障害を障がいにしたからって現実が変わらなければ何もならないし、”障がい”と使っている人の、私って人権意識が高い、とでもいいたいようなところが感じられる」というような発言をしていたのがありました。実際にはもっとくだけた表現でしたが。

似たような意見は、以前読んだエッセイにもありました。評論家の白洲正子という人が、「”めくら”で何が悪い。盲(もう)と呼んだからといって差別がなくなると思っているところが間違っている」ということを言っており、なるほどと一部共感しつつ、でもかなりの強硬発言にショックを覚えました。白洲正子という明治の人は、華族出のたいそう矍鑠とした老人だったので、その人に弱者の痛みがわかるのか…という思いもありました。

この障害/障がいの問題については、正直どうしたらいいのかまだよくわからないし、今後どうなっていくのか気になります。言葉を単に変えたからといって現実が変化しなければ意味がないし、言葉を変えることで人々の意識が少しずつ変わっていくこともあるのではないだろうか…、とも思うからです。


合歓木






ことば

2013年03月06日

今日ニュースの国際面を読んでいたらこんな記事を見つけました。
「チリのノーベル文学賞受賞者の詩人パブロ・ネルーダ氏の遺体が、死因究明のため掘り返されることになった。軍事政権による毒殺の可能性があるとの告発を受けて…」。詩人は1973年軍事クーデターの直後に癌で亡くなったとされています。

話は変わり、先日、「一番好きな映画はなにか?」という話題がある場所で出たとき、答えにとても窮しました。何が一番かを決めることは難しいし、「好きな映画は?」とか「趣味はなに?」などと聞かれると咄嗟には「いろいろ〜」と子供染みた答えしか出てきません。そうはいうものの「一番好きな映画」を問われて、頭の中にぼんやり映像が浮かんだのは『イル・ポスティーノ』という1994年のイタリア映画でした。

イタリアの小さな島が舞台で、貧しく内気で純朴な郵便配達夫が主人公の映画です。
その島に亡命してくるのがチリの詩人パブロ・ネルーダとその妻で、彼らとの交流を通し、主人公が愛や詩・文学の世界に目覚めていく作品です。終盤、主人公が光溢れる海辺で録音機を回しながら、波や風や鷗の鳴き声などの自然界の音とともに、自分の詩を読んでいく場面がとても印象的でした。青年が一つ一つ自分の言葉を紡いでいくシーンが鮮やかに描かれています。自分の言葉をもつということ、自己表現をするということは、心理療法においても何より大事なことで、そんなことを重ねながら観てもいました。

でも何よりこの映画を観て思ったのは、自然や世界や人々を愛する心というものは、知識や教養とはあまり関係のないところで生まれ育まれるのではないか…ということでした。とはいえ、主人公はネルーダと知り合うことで知識も表現方法も得ていくのですが。因みに映画は架空のもので、ネルーダがイタリアの小島に亡命していた事実から着想を得て物語が作られたとのことです。私は詩人や詩人の詩については何も知らないのですが、チリの歴史に深い関わりがあり国民的英雄とのこと、その終焉についてはどのような結果がでるのでしょうか…、やや気になります。

海









梅は咲いたか 桜はまだかいな♪

2013年03月03日

気がついたら3月になっていました。ろくに梅の花も見られず季節を失ってしまった感じがするのでせめて写真を掲げて…。(画材集よりプロのものを拝借)
先日は好物の桜餅を食べたっけ…。間もなく桜の季節ですね。今日は短く…。

梅の花.jpg






2.22

2013年02月21日

明日は2月22日。
「にゃんと猫の日」、と新聞デジタル版にありました。この頃新聞サイトを眺めていると、猫関連の話題に目がとまることが多いのは偶然でしょうか。駅長、館長、ロシアからの贈り物、事件絡みの首輪の猫などetc.etc.

まあどれも可愛くって写真そのものは猫好きにはたまらないのですが…、ご当地アイドル猫になってくると、猫の肩にかかってくる負担はいかばかりか?と心配になってきます。動物(ペット)を平和と友好のために扱うのならまだしも、人間の経済的利益のために使うとしたら、それはそれで動物に対する愛とはいかに?と思うのは穿った見方でしょうか…。1匹の動物をアイドル視するのと、保健所で殺処分されたり野良で虐待されている沢山の動物たちがいることは、どうもコインの表裏のような気がします。

明日はどんなニュースが流れるだろう…。



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2.22ねこの日







妙薬

2013年02月17日

明日は「雨水」。あまみずではなく、うすい。
雪が溶け始め、雪から雨に変わるころなのだそう。そのせいか最後の追いこみといわんばかりに、東京は連日厳しい寒さが続きますね。
今日のphotoはチョコレート。友チョコならぬ自分チョコ2粒。たまには…。


バレンタインチョコ





体罰と暴力

2013年02月13日

地下鉄車内のCMを度々眺めていて思ったこと。

パパとママの間に座っている三つ編みの幼い女の子(マリオネット風のお人形)が、「わたし、幸せだよ」と明るく話しながら、脚には痣があったり包帯を巻いているものがあります。

調べたら神奈川県が作成した児童虐待防止キャンペーンのCMでした。都内の車内でも流れていたし映画館でも見たことがあるので、もしかしたらテレビでも放映されているのかもしれません。各地の自治体にも似たようなものが沢山あるようですね。

↓ 神奈川県のもの
http://www.youtube.com/watch?v=hgMB-ryDscI

最近、教師やコーチによる体罰問題が大きく扱われるなか、私も友人たちとこの話題をすることが多くなりました。いくつかあった意見が、「全ての体罰を画一的に禁止するのはおかしいし危険な発想」「愛情のある体罰、その子の将来を見据えた体罰もある」「体罰を受けた子が指導教官の愛情を感じている場合もあって、それまで禁止するのはどうか」というものでした。外国人のなかには「頭や顔は問題だけど、言うことを聞かないときのスパンク(お尻の平手打ち)なら OK. No problem. 」という意見もあり…。

色々な立場の人の神経を逆撫でしそうで難しい問題だと思いますが、私としてはやはり体罰に反対です。なぜ反対かといえば、「相手の恐怖心や屈辱心に訴えることによって体罰の効果を出すことを狙いとしている」という大前提は否めないからです。また体罰や暴力は、それを受けた側をCMの女の子のような「否認」の心理状態に追いやるからです。本当はとても傷ついて怯えて怖いのに、心の痛みを感じないように愛情にすり替えてしまう。「大変な悪事をしたときに、いつもは手を上げない親が珍しく手を上げた。そこに親の愛情を感じた…」というのとは訳が違うのです。

でもね、体罰を受けた側にばかり目が向けられて、体罰をした側の精神についてはほとんど取り沙汰されないように思うのですが、それはなぜでしょうか…。バシバシひっぱたいたり蹴ったり髪をひっぱったりして顔や体を腫れ上がらせ、死ね等の暴言を吐いた側の精神状態は深い取材や調査の対象にはあまりならない。

アメリカでも体罰問題が話題になっているらしく、木の板でスパンクされた7,8歳くらいの男の子のことが報道されていました。全体が真っ赤に腫れ上がったお尻を、その子のお母さんが写真に撮り問題提起をしました。ここまでする必要があるのかと。

小さな子どもが悪ふざけをしたりぐずったり、十代の青少年たちの素行の悪さに手が付けられなくなったり、バシッと力で決めないとどうにもならないような状況というものも心情としては理解できなくはないけれど、養育・指導する立場にある大人たちは、「それが子どもにどういった影響を与えるのか」だけではなく、「自らの行為の暴力性」について改めて考えてみる必要があるのではないでしょうか。

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みどりのしずく





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