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心理 東京
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ブログ 心's LOOM
愛の本質
2013年01月31日
先日『タンホイザー』(1843-45,ワーグナー作)というオペラを初めて鑑賞しました。
大変雑にまとめると、「官能の愛 vs. 純潔なる愛」に葛藤する一人の騎士(兼 吟遊詩人)の中世ドイツ(11-12c)の物語。禁断の地で官能の愛に耽溺し、社会や教会から追放され自暴自棄になった騎士が、最後は彼を慕う処女の昇天(死)によって救済される(騎士自らも昇天する)、というお話でした。
いつもオペラは、オペラを講義している教員の友人に連れて行ってもらうのですが、その人独特のユニークな教え方はこう。
「叶姉妹か、吉永小百合か。男は両方必要と…。」
えっ?、私の頭は飛躍し、じゃあ…。
吉原か、聖母教会か?
愛人か、良妻賢母か?
劇場の人いきれも手伝って、次第に眩暈。
……
話はそう単純なのではありません。
この鑑賞の前に、歴史学者の故阿部謹也先生が著した『西洋中世の男と女 聖性の呪縛の下で』(1990)という書物に出会っていたので、時代背景を比較的理解することができました。
西欧の中世はキリスト教が男女(夫婦)の在り方を深く微細に徹底的に規定していた時代です。例えば子作りのための交わり(その時一切の悦楽はダメ)はOKだが、それ以外は夫婦でもNG等。規定に背いたら教会で告解しパンと水だけで〇日間過ごす、といった贖罪をしなくてはならない等。そんな圧力の下での結婚ならしなくていいと思いますが、「聖なる結婚」は天国へ行くための関所の一つでもあったのだとか…。だとすれば当時は避けて通れないのですよね。
こういった時代背景を踏まえて…。
タンホイザー(騎士)は官能の女神ヴィーナスと乙女エリザーベトとの間で揺れ動くのですが、2人の女性の間で葛藤する話ではなく、男性女性双方、愛の本質とはなにか?とか、快楽と聖性なるものとの間でもがき苦しんでいた時代に、自分を裏切らず(裏切れず)、キリスト教の呪縛に悩み挑み続けた人の物語なのかもしれないと思いました。
……
私の目眩は第3幕で最高潮に達し、貧血を起こし、残念ながらクライマックスを見そびれました。ですから一番大事なところを見ていないのですけど…。
『ピクニック at ハンギング・ロック』
2013年01月29日
久しぶりにお気に入りの映画、『ピクニック at ハンギング・ロック』という1975年のオーストラリア映画を観ました。
これは大変怖い、興味をそそられる話なのですが、単純な恐怖映画ではありません。
時は1900年(ビクトリア朝終焉間近)、オーストラリア・ビクトリア州にある寄宿制の女子学院(collegeと表されていましたが10代後半くらいの娘たちの学校)が舞台。良家の子女たちが大半を占めるこの学校は、感受性が高くとても麗しい乙女たちの花の園です。但し、あくまでも一見。
事件は学校の行事であるピクニックの日に起こります。
生徒たち一行は、数百万年前の火山によって隆起した岩山(ハンギング・ロック)へと馬車で向かい、岩の下で一日を過ごします。南半球の暑く乾いた空気と土地、毒蛇やトカゲ、極彩色の鳥たち、幾つもの奇岩が連なるハンギング・ロック(イメージとしては妙義山?)。磁場の影響のせいか、何人かの時計が12時で止まってしまいます。一行はお茶を飲んだり詩を読んだり銘々緩やかな時間を過ごし…。そのうち数人の少女たちが岩山の奥深くへと登っていき、教師と2名の生徒が行方不明になるお話です。
事件なのか、事故なのか、神隠しなのか。
映画は柔らかく民族楽器的な音調のパンフルートの響きと共に進んでいきます。
荒々しさ剥き出しの岩々はオーストラリア土着の霊的なもののようにも感じられるし、一方、夢想的な思春期の女の子たちに見られがちな集団ヒステリー的な匂いもする。
以前この映画のパンフレットを見たときに、時代設定が女性に貞節や柔順、フェミニンさを要求していたビクトリア朝時代であることを忘れてはいけないというようなことが書かれていました。例えば、女性はコルセットで腰をきつく締め上げ、胸元など肌を露出することを禁じられていた時代。映画では「町を通り過ぎたら手袋を外してもよい」と許しが出ます。失踪した少女たちは、岩山の奥へ登りながら、靴も靴下も脱ぎ捨てていきます。
抑圧されていた女性たちの集団ヒステリー現象。私はそう睨みつつ、且つ神秘的なところを楽しんでいます。
(これは余談。自然描写の場面で、高い木の上に、ある真ん丸の動物が。コアラでした。コアラが日本へ来るのが1984年。もう30年経つんですね。)
互助努力
2013年01月22日
日曜日に録画したてのドキュメンタリーを観ていました。
観られた方も多いのではないでしょうか。NHK の『終の住処はどこに 老人漂流社会』。この類いのものを観ると気持ちがズシーンと深く深く落ち込むのですが、他人事ではないので極力目を通すようにしています。
ここのところ東京駅地下街などを歩いていると、高齢女性のホームレスの人や、認知症とおぼしきホームレス風のおばあさんなどを見かけることが度々あったので、煌びやかにリニューアルされたスポットとのギャップに衝撃を受けていました。(なかには真新しいブランド品をたっぷり身につけたホームレス風の人もいました…。全財産入った紙袋を幾つももって移動している感じなのです。)
豊かな企業年金層と年金6,7万円の層の歳をとってからの生活の違い。配偶者を失ったり頼れる子供がいなかったり、認知症や身体の不自由が生じてくると、一人で暮らすことは不可能になります。現行の介護環境を利用できない人たちは行き場を失い、短期間しか利用できない施設を転々と動かなくてはいけません。
なかには3畳一間3食付(介護・医療サービスなし)で13,4万というものもあって、これを貧困ビジネスといわないでなんというのかと愕然としました。一体、どこにお金が回っていくのだろうか…。
これを自助努力の問題で片付けるならば、そう遠くないうちに日本は世界のなかで貧しい元先進国になっていくだろうと思いました。ただ、暗澹たる番組の最後では一つの希望も見られました。それは一人の女性が私財をなげうってグループホームのようなものを立ち上げたこと(それとて利用料は上記並なのですが)。そこはまるで家庭のような感覚で、手足の利く高齢者は自分のやれることをして炊事などの家事を手伝う。互いに助け合っていくという、人が生きていくうえで大事な基本的姿勢がそこにはありました。
東京の陰でも…
『自分の人生を生きたかった男』
2013年01月16日
厳しい寒さが続いています。
ノロウィルスやインフルエンザが流行っているようですので、どうぞ気を付けてください。
アメリカではインフルが猛威ですよね。
寒ーい昨晩は、すごく変な映画を観ました。『ビッグ・ピクチャー(the big picture)』という2010年のフランスの映画です。big pictureは「大局」の意味。主人公がカメラマンなので「大きな写真」にも引っかけているのでしょう。原題は『L’homme qui voulait vivre sa vie』(←?◇〇☓△、読めませんが…)で、『自分の人生を生きたかった男』。なんというセンスのない、面白い題なのでしょうか。
あらすじはこんな具合。エリート弁護士が主人公。妻と子供に恵まれて端から見れば羨ましい生活。妻とはぎくしゃくしているので恵まれてはいないか…。とにかく形は整っている。だが妻が隣人の売れないカメラマンと浮気していることがわかり、主人公はそのカメラマンを軽はずみであやめてしまう。そこからが変。カメラマンの body を海に沈め、自分がそのカメラマンになりかわり、発展途上の国へ逃亡する。元々好きだったカメラをもって。やがてそのカメラが注目され、顔が割れそうになってまた命からがら逃亡し…という急転直下のストーリー。起承転結はない。
これを凋落とみるか、原題通りにみるかは観る側の自由なのでしょう。私が面白かったのはナヨナヨしたいかにもお洒落なフランス人が、土臭く力強くなっていくさまです。パリ→ユーゴスラビア→南米へと場所の移動と共に…。
なさそうでありそうな人生なのでしょうか。
short-short
2013年01月12日
連休のせいか、東京駅は大変混雑。
先日のブログの答えは、東京駅丸の内北口丸天井でした。8羽の鷹か鷲のオブジェ。くちばしには稲穂(たぶん)を咥えています。
その下の丸いブルーグレー地のレリーフは、十二支。巳(へび)もいました。だけど天井は八角形なので、残り4つの生物はどこにいるのでしょう…?
それにしても和洋折衷の美しい天井だと思います。
それから引用した歌は、ザ・フォーク・クルセダーズでした。
Mode
2013年01月08日
昨年末にベートーヴェンの交響曲第9番を聴きました。聴いたことのない方でも、この合唱曲『よろこびの歌』(晴れたる青空〜♪漂う雲よ〜♪)を学校の音楽の時間に聴いたり歌ったりしていると思います。日本のこの曲は誰が作詞したのでしょうね。
元はドイツの作家F.シラーの詩『歓喜に寄す』にベートーヴェンが一部付け足したもの。この詩は(曲も含めて)鳥肌が立つくらい感動的なもので(「神」云々のところはよく理解できないけれども…)、それゆえ毎年末に聴きに行きます。
何と言ってもこの歌は世界平和を歌っていると思われるし…。シラーは当時のドイツの階級闘争的な観点から書いているといいますが、視野を世界に拡大できるものと思うのです。
有名な一節をあげると…
喜びよ、神々のうるわしき火花よ
エリュシオンの娘よ
われらはその火花に酔いしれ
この上なきお前、お前の聖域に入ろう
お前の魔力は、この世のしきたりが
容赦なくひき裂いたものを、ふたたび結びつけてくれる
人はみな兄弟となる
お前の翼に、そっとまもられて
(舩木篤也 訳、ドイツ語は省略)
「この世のしきたり」というのはドイツ語で「die Mode」。つまりあれ、単語だけ見ればモード学園と同じモードなのですね。このことを友人から説明されたのですが、つまりは政治も宗教も経済も民族も階級も、その時の「モード:流儀、様式、形態」に過ぎないのであると。普遍的で絶対的に正しいものがあるのではない、というニュアンスがこの歌のModeという単語からひしひしと伝わってきます。そしてこのModeを乗り越えて、人はみな兄弟になることができるのだ、という大いなる願いを込めた歌なのでしょう。だから私には希望の歌のようにも感じられ、力を感じるのです。2013年、少しでもそのような動きを感じられることを祈りつつ…。
それからこちらも年末になると頭から離れない。半ば本気で好きな『DAIKU』。ご存じでしょうか?
♪親父は棟梁で 叔父貴も大工
子供の時から カナズチ持って
お家を作って お国を造る
今年も終りだ 一汗流そ
お風呂に入れば やり直せるぞ
大工は DAIKU(大苦)を 風呂場で歌う♪
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↑ この美しいオブジェはどこのものでしょう?落下しないように網?が張られています。答えは後日。
新年を迎えて
2013年01月04日
明けましておめでとうございます。
カレンダーを取り替え、また新しい手帳を降ろしながら、古くなったものをペラペラめくっては眺めていました。
去年の大半のことは既に忘却の彼方へ流れてはいるものの、走り書きの古い文字を見ながら2012年を思い起こし、さて、2013年はどんな年にしたいだろうと、あれやこれや思い巡らします。これが大体新年明けての楽しみごとです。
目標は明確に具体的に。昔、文を書くとき、具体性を表すために「数字を入れろ」ということを口を酸っぱくするほど言われました。これはちょっと冗談だけれど、知人のおじいさんは「一日一個お饅頭を…」が目標というかモットーでした。
「敢えて目標を定めない」という考えの人もなかにはいらっしゃいます。人は過去にも未来にも生きられない。人は「今、現在を生きる」のだから、未来のことに捕らわれてしまうと現在への関与が薄まってしまう、ということです。この考えも大変一理あり。
ちょっと現実的な問題ですが、歳をとったときのこと、未来に備えた保険などの支払いのことを考えると、一体私たちは未来のために生きているのか、現在を十分に生きているのか、わからなくなることがしばしばあります。
お正月はややシビアに、高齢社会の話題なんかも出て、さてどうやって舵を切っていくか…。すっかりバラ色の年明けというわけにはいきませんでしたが、スワン色の昨年末でした。
↑ 白鳥の越冬地にて