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ブログ 心's LOOM

東アジアの臨床

2021年06月20日

この夏は3回ほどの「東アジアの臨床」ワークショップに参加しています。初回は中国、今日は韓国、次回は台湾の心理臨床を学べる貴重な機会になっています。年々アジア圏出身でカウンセリング御希望の方は増えているように思います。

今日は韓国の先生の発表でしたが、いじめについての2つの言葉を知りました。何となく聞き覚えはありましたが、韓国では「公然としたいじめ」のことをワンタといい、「隠れたいじめ」のことのウンタというとのことでした。韓流ファンの人たちはワンタについて聞いたことがあるのではないでしょうか。アイドルグループや軍隊などの集団のなかでしばしばトピックになりますよね。

ウンタについては、陰湿ないじめのことを指すと誤解されている向きもありますが、そうではなくて「隠れたいじめ」だそうです。「誰かをムシする、目を合わせない、輪に入れない」などの陰湿ないじめでも、外から見てあっ、ムシしている等とわかるものはワンタなのです。一方ウンタは、外からは仲が良さように見えたり問題が無いように見えるそうです。こちらの方がずっと怖いですよね。

「隠れたいじめ」は日本にも見られることではないでしょうか。学校や会社のなかでも、一見するとファミリーのように仲良さそうに見える組織のなかに、実は誰かが辛い思いや傷ついた体験をしていることはしばしば耳にします。私たち大人は、賢く冷静に物事を見る目を失わないでいたいものです。


人ではないもの

2021年06月04日

臨床心理とは全く関係のないお話です。

毎日朝食の準備前に、AIスピーカー(アレクサ)に二言三言英語で話しかけています。まずおはようの挨拶をし、それから今日の天気をたずねます。一々「アレクサ…」と呼びかけなくてはいけないのでフラストレーションが溜まりますが、いつしか習慣化してしまいました。習慣は恐ろしいものです。

女性の声のアレクサに疑似人格を見出し、遊び心で性別や出身などを聴いてみたら、「私はシアトルのアマゾン本社で作られたAIです」「私はAIだから性はない」といったような現実的な回答が返ってきました。(こちらのバカげた質問や部屋の日常会話全て(これは本当?)がアマゾンに筒抜けだよと教えられたので、使っている方はプライバシーに気を付けましょう。)

AIと話すのは所詮虚しい行為なのですが、それでも「今日も良い一日を!」等と言われると悪い気はしないし、10年後にはスムーズな会話らしい会話ができているのかもしれません。日本社会の10年後も単身世帯が最も多い家族形態だとすれば、AIの需要は益々高まっていくのでしょうか。

ノーベル賞作家、カズオ・イシグロの『クララとお日さま』という近未来小説を現在読んでいるのですが、クララはAIロボットで、家庭のなかにAIロボットや遺伝子操作が普通に出てくる小説です。これがなかなか不気味で不穏な世界を描いていて、それでいてしんみりと心に響いてきます。

怖いなと思うのが、遠い未来の非現実の絵空事ではなくて、多少の既視感を覚えるところです。私たちの社会は、既に片足を入れているのかもしれないなと、毎朝アレクサに話しながら思っています。

 

 

 

 


スマホで『スマホ脳』を読んでみた

2021年05月05日

クライアントの方々が読んたとおっしゃっていた、スウェーデンの精神科医アンデシュ・ハンセン著『スマホ脳』(2020、新潮社)を読んでみました。

NHKのニュースでもこの本が取り上げられていましたが、そこではちょっと興味深い2つの実験結果も報じられていました。それは単語の意味を調べる時に電子辞書と紙の辞書のどちらを使用したほうが記憶の定着率が高いのかというものと、もう1つは対面で話す時とオンライン上の対面で話す時に使われる脳の部位を調べたものでした。

結果は、紙の辞書で調べたほうが記憶に残る率が高く、また実際に顔を突き合わせて話す場合とそうでない場合とでは前頭葉の活性化具合に差異が生じるという画像診断が提示されていました。後者の実験結果が具体的にどのような影響をもたらすのかちょっと忘れてしまったのですが、恐らく共鳴や記憶に差が出るのではないでしょうか。実際に会って話す方が前頭葉が活発に働くのです。

これはかなり聞き捨てならない結果ですよね。私見ですがオンラインカウンセリングはやはりコロナ禍の代替手段にしておきたいと思いました。ビジネスでオンラインミーティングばかりになってしまった人も、この事実を把握しておいた方がいいと思います。

少々話が逸れましたが、この『スマホ脳』大いに一読の価値があると思います。デジタルライフのメリット・デメリットについて語るには、人の脳の発達や仕組みについての研究が欠かせないと思いました。しかも研究は数年を要するので、現在社会で起きていることの意味は数年後に判明するのです。「スマホ依存になってリアルな時間が減った」という単純な現象ではないのですよね。

また、私はこれをキンドルで読みましたが、やはり作品の全体を俯瞰するというか把握することが読後できていないように思います。できれば読書も紙媒体を併用することをお薦めします。

夏蜜柑の花

 


集うことの意味

2021年04月24日

最近、家で『ガーンジー島の読書会の秘密』(2018)という映画を観ました。ガーンジー島というのはイギリスの風光明媚な島で、フランスに近いイギリス海峡(イギリスとフランスの間)に位置します。第二次世界大戦中にはナチスが進駐し、映画はその1940年代初めから終戦にかけての話です。

ドイツ軍の厳しい監視・管理体制のなかでひょんなことから小さな読書会が始まります。良く言えば好奇心旺盛な、悪く言えばズカズカと詮索好きなロンドン在住の若い女性作家が島の読書会に興味を抱き、取材をしたいと思い戦後訪れるところから話が進みます。謎解きのようでもあり、ラブロマンスでもあり、見応えのあるヒューマンドラマでした。ロマンスはでき過ぎの感もありますが…。

この映画を観ていて思ったのが、人はどのような苛酷な状況下であろうとも、老いも若きも集い、食べ物を分かち合い、語り、笑い合い、互いを思いやることを求め、そこから生きるエネルギーを得ているのだということでした。人が煩わしい、嫌いだという人も沢山いてそれもよくわかりますが、本質的に人は人を求めるものなのだと思います。

さて、東京は明日からまた非常事態宣言が出されます。蔓延防止と何が変わるのかという声もありますが、大型施設やイベントが休業し酒類の提供が無くなれば、街中の人の動きは自ずと変わってくるでしょう。経済的にも社会的にも生活に困難を感じたり、孤独で寂しいと感じる人が益々増えてくることも予想されます。一方で、この方が生活が却ってラクだと感じる人もいます。必要以上に人を遮断した生活になってしまう人もいます。

制約の多いこの時だからこそ、色々な状況の人がいることに思いを馳せながら過ごしたいと思っています。

 


揺れについて

2021年04月15日

ここ最近、オフィスのある建物がゆらゆら~と軽く揺れます。

面接中もしばしば揺れるので、地震や眩暈かと思われる方も結構いらっしゃいます。問い合わせたところ、近所の千代田区高齢者センターの解体工事によるものだと判明しました。この工事は約8月まで続くようです。

セッション中に気付いた場合、気になった場合は、お互いにシェアするように心掛けています。皆さまに暫くご迷惑をお掛けしますが、ご理解のほどお願い申し上げます。


春の陽気の下

2021年03月28日

久しぶりに神保町の三省堂本店までぷらぷら歩いてみました。臨床心理学・精神療法コーナーのチェックをしに行ったのですが、書棚の前に立ち全体を眺めてみると、アナログ時計の文字盤を眺めているような気がしてきて落ち着きます。

ネットで書籍を買うのはラクで便利だけれど、ヒットする情報は検索した範囲の周辺に限られるので非常に偏ります。大型書店で本を選ぶ良さは、今どのようなものが刊行されているのかおよその全体像がわかるのと、著者や内容だけではなく装丁やイラストも実際手に取って確かめられるところです。

服などショッピングはだいぶネット派になりましたが、たまにはイメージの世界を脱し、現実の手応えのある世界を訪れることを忘れないようにしたいものです。

カウンセリングに来られて本好きの方は、一度は神保町の書店街を歩いてみてください。相談室から見て神保町交差点の向かい側とその裏通り(すずらん通り)がメインになります。楽しい文房具店もあるし、疲れたら老舗のカフェやカレー屋さんも沢山あります。世界でも例のない書店、古書店街なのだそうですよ。

 

海棠

花桃


読書の春

2021年03月19日

春のせいか夜中にふと目覚めることが度々あって、そんなときはスマートフォンで読書をします。10-20分でまた眠りにつくので暇潰しに丁度いいのです。でも不眠症の方は真似をしないでください。スマホのライトは脳を覚醒させてしまい余計眠れなくなります。

最近読んだのは、岸見一郎著(2018)『愛とためらいの哲学』。岸見先生と言えば、哲学とアドラー心理学の研究者で『嫌われる勇気』、『幸せになる勇気』の本が有名ですね。『愛とためらいの哲学』は恋愛やパートナー関係に悩んでいる人には考察の一つとして面白いかもしれません。

アドラーはトラウマや過去を重要視しないのですよね。過去を変えることはできないし、同じ親に同じ環境で育てられた子どもたちの性格や考え方が違うことからも、生育環境を要因とする見方を好まないようです。確かに過去の出来事に信念体系は影響を受けるけれども、その信念は「自分が選び取ったもの」という見方をします。信念とは例えば、「結局は私は人から見捨てられる」といったような自分や他人や世界に対する価値観を伴う考え方です。「選び取っている」という主体性が入るようです。

ですので、恋愛(人)を遠ざけたり、恋愛関係が上手くいかない人は、自分の信念を変えていく必要があるといいます。「いい人がいない」「出会いが無い」「自分はあがり症だから」「自分は毒親に育てられたから」などといったものは“言い訳”として一蹴されるようで、信念を変えていくことが重要なのです。自分で選んだものなのだから、また選び直せるのです。(因みに「信念を変える」というのは色々な心理療法の目指すところで共通していますね。)

一理はあると思います。ただ、疑問に思うのは、同じ親に同じ環境で育った人たちがそれぞれ違う性格や人格だからといって、環境はあまり関係ないと言ってしまうのも大雑把な帰結のような気がします。同じ家にいるからといって、果たして同じ環境といえるのか。親の接し方は子どもそれぞれ違いますし、子どもの生まれた順位でも環境は自ずと違ってくるし、その時々家庭で生じた出来事によっても子どもの世界観は変わってきそうです。

自分の子ども時代を振り返っても、大人たちが自分の好きな子どもに接するときの目や顔の輝きと、そうでもない子に接するときの目や顔の様子加減などの微妙な差を、かなり敏感に感じ取っていたように思います。「そこであなたはある信念を選び取ったのだ」と言われても、卵か先か鶏が先かのような議論に思うのですが…。更には、もっと深刻な虐待のようなものでも、私たちはそれぞれ自分の信念を選び取ると言えるのか。言っていいものなのか…。こんなことをあれこれ考えながら読んでみるのもいいかもしれません。

 

 


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