2022年12月11日
宗教2世の問題が大々的に取り上げられるようになりましたが、2世の人たちの生き辛さや心の傷は以前から臨床の場でしばしば語られていたと思います。個々人の信教の自由は妨げられてはいけませんが、子どもは親の庇護のもとでしか生きていけないので、自然と親の信仰や言動に従わざるを得なくなります。彼らの生き辛さや苦悩を掬い取る仕組みというのは、子どもの人権を守るために必要なことと思います。
そんななかで気になっていた新聞記事があり、切り取っていたものを改めて読んでみました。それは『新興宗教と女性 信仰を通し搾取 社会の縮図』(朝日2022.11.24)という東京大学大学院教授の林香里先生による論壇時評です。論壇時評とは様々な著者のコラムや評論文を紹介しながら時事問題を扱うもののようです。記事では、子どもではなくまず母親に目を向けることの重要性を問うていました。
宗教にはまってしまったり宗教を下支えしているのは圧倒的に母親が多いことをどう捉えるのか。批判的に見るのではなく、母親の生き辛さを吸収する装置として宗教が機能しているのではないか。では、母親の生き辛さとはどのようなものだろうか。子育てや家庭での役割におけるプレッシャーや無意識に取り込んだ社会の価値観があるのかもしれない。しかしその大半の宗教も、ジェンダーバイアスを強化する方向に働いているという鋭い指摘がありました。
また拡大された宗教として、スピリチュアリティの隆盛も見逃せないという論考もありました。スピリチュアリティとは代替療法、ヨガ、占い、パワースポット巡り、癒しやヒーリング、親学などが含まれます。
健康的に利用できていれば問題はないと思いますが、搾取の対象にされてしまったり全面的に信奉し過ぎたりすると、本人や家族の自律性と幸福が奪われてしまうことになります。
癒しやヒーリングは心理療法とは様相が異なるものだと私は思っていますが、「癒し」という言葉は心理の世界でも頻繁に使われているので、ほとんど一緒の意味に捉えて臨床心理士のもとへ来られる方もきっといらっしゃることでしょう。
癒し、ヒーリングというと「傷を治す」という意味合いが強いかと思いますが、心理(精神)療法及び心理カウンセリングと呼ばれているものは、「自分に気付き、自分や他者との付き合い方を探し、自己肯定をできるようにするプロセス」だと考えています。「自分との付き合い方」を磨くというところが斬新ではないかと思いますし、前回のブログで書いた「自分自身に真に優しくなる。共感の眼差しを向ける」ということに繋がってきます。
2022年12月04日
セラピーとは何か。
セラピーの究極の目標は「自分自身に対して真に優しくなる、思いやりをもつ、自分を許す」、ということだと思います。これは自分のなかに「大人の部分をつくっていく」ということとほぼ同義だと思います。
「無理です、私は自分が嫌い」「ありのままの自分なんて許せない」etc.という声がすぐに聞こえてきそうですが、これは何でもありの甘やかすという態度では決してありません。「大人の部分」というのは「自己を律する」ところがありますが、自責感、罪悪感、批判が過度に強くて厳しいというのとは違います。
敢えて言うならば、自分を他人と比較しない、条件付きの愛を課さない(これができるから自分には価値があるという考えや態度を捨てる)、自分をなだめたり励ましたりする能力を育てる、ということだと思います。
真に自分自身に優しい人こそ、他者を責めたり批判的ではなく、他者を見る目が大らかになっていくのではないでしょうか。
一年の終わりのこの季節、少し自分自身に対する見方を緩めてみましょう。
2022年11月18日
今週はオフィス隣りの文房具屋さんの歳末恒例セールがありました。スタッフが増員され掛け声が外に響き渡り、セッション中も聞こえてきました。気になった方もいらっしゃったのではないでしょうか。私にはこの掛け声で季節を知る年中行事の様なものになりました。
10月後半から11月初旬には神保町古本祭りがあり、3年ぶりにブックフェスティバルも開催されました。色々な情報を頂いていてスズラン通りに出掛けたかったのですが、時間が合わずに街の雰囲気だけを行き帰りに感じていました。
今年は森田療法のアドバンスセミナーを受講していて、それも後一回で終わろうとしています。夕食後に受けるので眠くてしんどい時も多々ありましたが(目の下にキンカンが必須です)、トラウマのトの字も出てこない心理療法なので非常に新鮮な内容でした。
入院森田療法には絶対臥辱期といって一週間くらい食事と排泄以外起きてはいけない期間があることは有名ですが、これはコロナの隔離期間が似ているとのご指摘は我が身を持って納得できました。コロナに罹患しても小さい子どもの世話をしなくてはいけないお母さん方は事情が異なると思いますが、段々ただ横になっているのがつまらなく苦痛になってくれば、自分の欲望の萌芽に気付くことができます。
コロナ第8波の入り口に差し掛かったと言われていますが、一番は罹らないことを祈るばかりですが仮に罹ったときは「絶対臥辱期」だと思うことにしたいものです。
※カウンセリングルームのコロナ対策としては、自身はオミクロン対応ワクチン含め4回接種済みであること、一時間毎の換気、アルコール消毒、常時加湿を心掛けております。クライアントの皆様には不織布のマスク御使用をお願い致します。
赤褐色の月食
2022年11月04日
ブログの更新が滞りがちですが、既に11月を迎えていました。
当たり前ですが自分自身が一年一年歳をとっていくので、身の回りで喪の機会が増えてきました。子どもの頃から親しみを感じていた人や心を寄せていた犬猫との別れもありました。
命との別れの時はいつも、谷川俊太郎さんの詩『生きる』を思い出します。特にファンではないのですが、小学校のときの教科書に掲載されていたことがとても大きいのだと思います。皆さんも一度は読んだことがあるかもしれません。人は過去にも未来にも生きることができるかもしれませんが、「今、ここ」にこそ生き生きとした生が宿っているのでしょう。
セラピストとクライアントは対話や心理療法を通して治癒や成長という未来の変化を志向しますが、現在がどんな困難な状況であれ「今、現在」に生きていること、存在することこそが、代替のきかない何よりも尊いものなのだと思いました。
2022年09月24日
コロナは過ぎ去ったような錯覚を覚えますが(WHOの終息宣言?)、オフィスにいながらオンラインで学会に参加していました。2020年春から始まったコロナ禍の子どもたちの実情や、近年激甚化している自然災害などの被災地の子どもたちの心のケアなど学びの多い発表ばかりでした。
とりわけ招聘講演の新聞記者大治朋子さんのお話がとても響きました。『歪んだ正義「普通の人」がなぜ過激化するのか』というテーマで、テロや犯罪事件などの長年にわたる取材と、大学院で学ばれた安全保障論や危機トラウマ学を基にした知見だったので、時宜にかなった大変興味深い内容でした。
犯罪を引き起こさないようにするには社会へのアプローチが不可欠ですが、個人へのアプローチとして以下のことを挙げられていました。
①自己ナラティブ生成力を付ける。
②脳化社会からの積極的な離脱支援をする。
自己ナラティブとは自己語りのことで、自分の思いや感情などを表現する力をつけることです。大事なのは被害者意識だけに囚われない「主体性のある語り」を創ります。
これはナラティヴセラピーにおける、ドミナントストーリー(優勢な物語)からオルタナティブストーリー(代替の物語)への書き換えに似ていますね。例えば「私は元被虐待児だ」から「私は元被虐待児だが今まで何とか生き抜いてきたし、自分に出来ることをしようとしている」というのがストーリーの書き換えです。
②については「脳」から離れて「首から下、身体」をもっと志向していくことです。脳化社会とは偏差値やIQ偏重の社会であり、そこからの離脱とは情緒的コミュニケーション能力やメタ認知(認知を超えたもの)を重視していくことを目指します。「私は怒っている」は認知で、「私は(自分が)怒っていることに気付いている」がメタ認知です。また②には電脳空間と健康的で適切な関係を築くというものも含まれると思います。
詰まるところ上記2つのアプローチは、どんな人にとっても必要なもののように思われました。
a sleeping cat – capsule toy
2022年08月31日
明日から9月ですね。7月終わりに受けてきた研修の復習をぼちぼちと進めています。コロナの後遺症も少しずつ薄れてきました。そろそろ体を動かさないとあっという間に体重も増加していきます。食べ物が美味しい季節に入るので恐ろしいですね。
受けた研修はEMI(eye movement integration)というもので、直訳すれば眼球運動統合でしょうか。EMDR(眼球運動による脱感作と再処理法)と同じように眼球運動を使ったトラウマ治療法です。
EMDRはREM(Rapid Eye Movement:急速眼球運動)を用いますが、EMIではSPEM(Smooth Pursuit Eye Movement:スムーズな追従眼球運動)という、とてもゆっくりとした目の追従運動を用います。それぞれ向き不向きがありますが、私の感想では後者の方が視野を存分に使えるところがいいなと思いました。
うつの人がうつむき加減でいることが多いように、目(眼球)の動きと心理状態は関係があります。また目の動きは脳の中の多様な部位によって複雑にコントロールされ、認知と相互作用することは科学的エビデンスが集められつつあります。
EMIの心理療法は少なくとも90分くらいの時間を必要とするので、改めてその枠を用意したいと考えています。
2022年08月18日
コロナに罹ると10日間の療養生活(隔離生活)を送ることになります。私の場合数日間は高熱の乱高下を繰り返していましたが、熱が下がった後半5日間は「ああ、なんて暇なのだろう…どうやって過ごそう…」と空白の時間に圧し潰されそうになっていきました。とはいえ咳や全身痛などの症状があるので、本を読む気にもなれず、テレビも全く面白くなく、スマホも実に虚しく、嗅覚がなくなったためか食欲もなく、気力が湧かないって、ああ、こういうことなのねぇ…としみじみ無気力の辛さを感じていました。
でも時間がもったいない、10日間も無駄にするんだ…という焦燥感もあり、なので起きられる時間は英単語をツラツラダラダラ~とノートに書いたり、それから何よりベッドの上でも集中できたのは「間違い探しクイズ」と「難問、間違い探しクイズ」というムックでした。これが結構面白くてはまりました。
やったことがある人が多いかもしれませんが、左右二枚似たような絵があって違いを探していくものですね。これがやり出すと、認知心理学の実験のように思えてきて益々はまるのです。
絵に定規で線を引いて(情報を加える)ブロックを可視化できるようにすると、ブロック毎の絵にだけ意識を集中できるようになります。情報を加えることが、余計な情報を遮断し、錯視などから免れて必要な情報を正確に把握できるようになる、というところが本当に面白いなと思いました。
それでも頭を悩ます難問が必ず出てくるのですが、それも数をこなしていくと傾向が見えてきます。問題を考えているのは人だと思うのですが、「人間のやること、なすこと、考えつくことは大体どれも同じなのだ」ということが見えてきて大いに安心させてくれるのです。また混乱した場合は、一度絵から離れて時間をおいて眺めてみると、新たな発見ができたりもします。とらわれを捨てて、頭をクリーンにできるのでしょうね。
クロスワードなど知識が問われるクイズは知らなければ答えられませんが、感覚に訴えるクイズは病の時でも楽しめます。もしも無聊に嘆いている方がいらっしゃったらオススメ致します。