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ブログ 心's LOOM

風薫る…

2014年05月01日

5月になりました。
早めにお休みを取り、心を潤わせたかったので?水辺へ。

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こんな落ち着きのない訪問者も。都心でもよく見る小鳥ですが、黄セキレイ、可愛いですね。

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『 THE ART OF LOVING 』

2014年04月23日

学生の頃のうろおぼえな記憶なのですが…。
A子とB子が1人の男子に想いを寄せていたところ、その男子はA子を選び、間断なく、B子を選ぶという件がありました。「手近な間で気持ちが動くの?」とB子が複雑な気分でいたところ、C子が次のような慰めの言葉を言いました。「A子が鮭茶漬けで、B子が梅茶漬けってわけじゃないよ!(もっと自分に自信を持って!)」と。カッコ内は傍らで聞いていた私の推測なのですが、鮭茶漬けと梅茶漬けのフレーズが面白くてそこだけ鮮明におぼえているのだけれども、果たしてB子の方が上と言っているのか、A子がステーキならB子は寿司と言っているのか、慰めになるのかならないのかよくわからないセリフでした。因みにこの場合、何をもって2人を比較しているのかは、性格を含めた全体というよりは明らかに”みてくれ”だということは暗黙の了解だったように思います。

前置きはともかくとして、学生の頃は私も「恋愛や人生のラッキーなことに関しては断然容姿がものをいう」という巷に溢れかえっている通念を信じたくなくても信じていました。しかも「愛する」より「愛される」方がずっと幸せなことだとも思っていました。周囲にはキラキラ輝いていた女子学生が多く、何もかも人生が上手くいっているように見え、いいなあ…と羨ましくさえありました。ところが少しずつ年月が経つと、恋人同士でも夫婦でも、いい恋愛や愛情関係を保っている人たちというのは、男性も女性も容姿など関係なく、どうやらもっと別の何かが関係しているのではと見えてくるようになりました。じゃあ、それは一体何なのか?

そんな疑問と興味を抱えていた頃に出会ったのが、エーリッヒ・フロム著、鈴木晶訳 『愛するということ』でした。
原題は 『THE ART OF LOVING 』。「愛する技術 or 愛するという技術」で、この場合 art は芸術ではなく技術を意味します。エーリッヒ・フロムは新フロイト派の一人であり、ドイツの精神分析家です。この本を一言で表すならば、「愛は生まれながらに誰もがもっているものではなくて、技術なのだから取得して磨いていく必要がある」ということでしょう。愛や愛するという行為は、人間や社会に最初から当たり前に存在するものではないのです。まずは教えられ、学び、試行錯誤し、練習に練習を重ねて身につけていく必要があるのです(但しお気楽なハウツー本ではありません)。しかもフロムの唱える大人の成熟した愛は、「愛される」ではなく、「愛する」という能動的なものです。また愛は、「もらった、もらっていない」という量ではかれるものではないと言います。

「親の愛がなかった、足りなかった」「愛する対象がみつからない」「私は人から愛されない」「私は人を愛せない」などの愛にまつわる苦悩は、人間にとって根源的なものですよね。この本は簡単ではないけれどそんなに厚いものでもないので、興味のある方にはお薦めします。

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『愛するということ』

2014年04月17日

春たけなわですね。

「100分で名著」という25分×4回シリーズの番組で、エーリッヒ・フロムの上記文献が放映されていました。これは学部生の頃、心理学概論の若い男の先生が教えてくださったとても思い出深い本です。生きていくうえでなによりも大事なことを教えてくれる、示唆に富んだ名著だと思います。次回この辺りのお話を…。


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映画のなかの女性たち2

2014年04月09日

5月10日封切りの『ブルージャスミン』(Blue Jasmine)という映画を一足早く観ました。Jasmine という名の女性の物語。監督のウッディ・アレンについて、ほとんど興味がないので全く期待していなかったのですが、いやあこれが面白かった!ジャスミン役のケイト・ブランシェットはこれでアカデミー主演女優賞をとりましたが、それも納得。この女性のパーソナリティにハラハラ、やきもきしながらどんどん引き込まれていきます。

どういったパーソナリティかは観てのお楽しみということで書きませんが、ちょっと?だいぶ?問題のある女性です。いつも美しくエレガントな装いのジャスミンですがいかにも保守的なスタイルだし、エルメスのバーキンだかケリーだかがやたら虚しく浮いている。

最後のシーンのジャスミンの顔。凄みがあります。ケイト・ブランシェットの『エリザベス』の最後の顔も、何かを決意したような凄みのある冷徹な表情でしたが、今回はなんと形容したらいいのでしょうか…。とにかく観てのお楽しみ…。

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新年度

2014年04月05日

花冷えですね。
下はちょっと足をのばして訪れた横浜の三渓園。
夕暮れ時、三重の塔の上を、鳥が群れで飛んでいて風情ある光景でした。
と思ったら、カラスもカァカァ群れで飛んでいましたっけ。

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2014年の桜

2014年04月01日

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映画のなかの女性たち

2014年03月23日

一体、何が回復に役立ったのだろう?
まあ、フィクションのなかの話に過ぎないのだけれど、そういった観点からよく映画を楽しみます。

ヒステリーという疾患をご存知でしょうか。それならば、うちの妻も、母も…という声がちらほら聞こえてきそうですが、実は性格のことではなく身体化障害や転換性障害といった精神疾患のことを指します。それらの説明はさておき…。

先日『博士と私の危険な関係』という劇場未公開のフランス映画を wowow で観ました。邦題はなんだかあららーと思いますが、原題は『AUGUSTINE』(オーギュスティーヌ)。主人公の女性の名前で、ある家に仕える若い召使いの話です。そして博士とは解剖病理学の神経科医シャルコーのこと。オーギュスティーヌはヒステリーの入院患者で、つまりシャルコーとオーギュスティーヌの関係のお話なのですね。

wowow による映画解説は、シャルコーとオーギュスティーヌの医師と患者の禁断の恋愛もの、のようにドラマティックで歪んだものになっていると思われますが、19世紀後半のパリの大規模な精神病院(サルペトリエール病院)を舞台にした、医師とヒステリー患者の関係を描いた歴史ものとして観るくらいがちょうどよく、あの当時はこんな風だったのかと世相や時代を知る面白い作品でした。(これは余談ですが、最近の映画の紹介文は、随分いい加減なものが多くなってきているように思います。)

さてこのオーギュスティーヌの症状とは。
けいれん、意識消失、半身の痛覚の消失、片手の拘縮・麻痺、片方の瞼が開かない、片耳の聴力が弱まる、といったものでした。原因が一般身体疾患とか薬物などの物質によらないもので、偽神経症状を伴うものであり、19世紀ヨーロッパで主に若い女性たちの間で流行していた病気でした。周知のように、シャルコーやフロイトらはヒステリー研究で有名です。

なぜ、解剖病理学の神経科医と精神疾患が結びつくの?という疑問もあると思うのですが、映画を観る限りではシャルコーは患者の心を診るのではなく、体中に線を引いたり反射や痛覚を調べながらと体を丁寧に診ているのです。神経疾患との鑑別をしていたのでしょうか。フロイトなんかも初期はウナギの解剖をしていたことで知られていますが、まずは体の解明から入り、次第に心因性のものに関心が移っていくのですよね。

またシャルコーはヒステリー治療に催眠を使ったことでよく知られています。学者や医者なんかが一堂に会した場所で、ヒステリーの患者を連れてきて催眠をかけヒステリー状態を起こすのですが、治療というよりはもはやショー。ヒステリーが誘発されると一斉に拍手なんかが起きるわけですが、何とも同じ女性として見ていて痛々しい。本人は意識を失ってはいるものの…。

この映画が面白かったのは、オーギュスティーヌが段々見世物にされていくことに疑問を感じ始め、講堂を脱走したときに階段から転げ落ちたことがきっかけで突然治るところです。シャルコーは随分無愛想で医者然とした中年男でありながら、オーギュスティーヌの面倒をみて何となく心も傾いていくのですが、今一つ掴めない人。なぜあんな風に彼女や患者たちを見世物にしたのか…。オーギュスティーヌを聴衆の面前に曝すという、もっと大きいストレスを与えてトラウマを克服させたのでしょうか?

日本ではこんな感じに進まないだろうと思うのですが、やはりフランス。メイドであろうが患者であろうが、結構医者に対等にものを言うのです。そして最後は既に治っているのに聴衆の前でヒステリー発作のふりをしてあげて、医者に花を持たせる。主客転倒です。オーギュスティーヌが力をつけていったのか、それとも最後は別種の傷を受けてしまったのか、おそらく前者であると思いたい作品でした。


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