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ブログ 心's LOOM

勉強会

2012年05月25日

東京はやや蒸しますね…。

本日は勉強会があるため、また深夜にブログを更新します。

水辺の大木
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またもや大変遅くなりました。帰宅は辛うじて午前様を免れたものの、夕飯を食べていたら1時近くに…。
今日は勉強会の10回×4クールの最終日でした。身になったのかどうかは棚上げすると、我ながら一日も休まず続けることができました。途中で何度も挫折しかけたけれど、まあ何とか参加できたのでその限りにおいてヨシとすることにしました。
おまけに…、今日は21日付けのブログでご紹介しました、書籍『流れと動きの森田療法』の著者でおられる岩田真理さんに、講義後声をかけていただきました。ブログを読んでくださったらしく、大変嬉しく思いました。実は大学院の先輩なのですが、森田療法の専門家で大変造詣が深く、また他の療法の翻訳もなされており、神経質(笑)の私にはとても恐れ多くて今まで軽い会釈しかできずにいました。 またぜひ、深遠な森田療法の世界について、お話を聴かせていただきたいと思います。
さて、明日もあるので今夜はこの辺りで…。

日本の家族

2012年05月24日

初夏の陽気ですね。事務用品の配達員さんが汗だくでした。
本日は少々忙しいためブログは夜半に更新します。
大木
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さて、遅くなりました。今日も本の紹介です。
ここ2,3日、中根千枝著(1977初版2007)「家族を中心とした人間関係」講談社学術文庫、を読んでいました。これで2回目になりますが、今度は比較的すんなりと頭に入ってきました。
心理学の本ではなく文化人類学の本ですが、家族療法を行ううえで、日本の家族の特質や歴史的変遷などに関心があるので非常に面白く参考になりました。この本は、インド、中国、韓国、東南アジア、アフリカ、西欧、日本といった国々の家族の形態や性質を比較考察しています。
これによると…。
日本の家族はコミュニティーや親類縁者の間でも非常に閉鎖的、排他的で、家はベースキャンプの役割をしているのだそう。ベースキャンプとは、一日を会社や学校などで過ごした疲れた家族構成員が寝に帰り、疲れをとり、翌日の活力を蓄える場所、とのことです。
「うちは地方にあるし、コミュニティーのなかでも付き合いがあるほうだ」と言う人も、諸外国に比べれば明らかにその性質が違うのだとか。例えば、夫婦喧嘩を隣近所の人たちの前で堂々とできるかと言われれば、「恥ずかしくなる」のが日本人とのことです。日本人の対人恐怖症や人の目を非常に気にするところと大いに関係がありますよね。
この本が書かれたのは1977年でそれから35年が経ちますが、果たして日本の家族はどうなっているのでしょうか。自分の住むところに限って言えば、日々の挨拶や町内会は辛うじてあってもコミュニティーはなし、もしや77年とさほど変わらないのでは?と思います。変化しているところはどこだろう…?そんなことを考えながら読むと面白いと思います。


新たな世界

2012年05月23日

昨夜は何気なくTVをつけたら、「左手のピアニスト 舘野泉」という番組が放映されていました。
脳出血の後遺症で右手で弾くことができなくなり、2年間のブランクを経て、左手だけでメロディーと和音を奏でる奏法を編みだし(親指と人差し指でメロディ-、残りの指で和音だそうです)、新たな境地を今なお開拓している男性ピアニストのお話でした。
右手が使えないということはピアニストにとって致命的なハンディだと普通は思いますが、それが私の先入見ということがよくわかりました。
左手から生まれる曲は…、目を閉じて聞こえてくる曲は、どれも心に深く響いてくるものばかりでした。もっとも、舘野氏によれば、「左手だけで音楽を奏でているのではなく、全身で弾いている。音楽は呼吸みたいなもの」とおっしゃっていたのが印象的でした。正にそのような「息吹」を感じさせる演奏です。
左手が右手を見事にカバーしているのではなく、左手独自の演奏がピアノの新しい世界を創っているのだと感じました。もしかしたら、全てとはいいませんが、ハンディと思っているものは案外そうではないのかもしれません。そんなことを考えさせる番組でした。
のばら

雨降りには

2012年05月22日

昨日と打って変わり寒い一日ですね。今日は軽めの話題で、軽く終わります。
昨日は英語の先生から、バラードなどの音楽をもっと聴くように奨められました。「英米圏の人でどんなミュージシャンが好き?」と聞かれ、咄嗟に出てきたのがエリック・クラプトン。
そうしたら、「彼の発音はきれいだよ」と言われ、次は「彼の何の曲が好き?」と問われ、曲名が口から出なかったので「運転している時、BGMで聞いている」と答えたら、「tears in heaven」のサビを歌ってくれました。私の頭に流れていたのは、「I shot the sheriff (保安官を撃っちまった)」だったんですけど…。
来週までの宿題なので、早速休憩時間に「tears in heaven (天国の涙)」をじっくり聴いてみました。歌詞を一度読んでから聴くと、聞き取れます。それにしてもやはりいい歌、です。涙がじんわり…滲んでくる歌です。彼はこの曲を作って息子を喪った悲しみを乗り越えたんですよね。悲しくて力強い歌。
雨の日にはバラードを。
晴れの日にはソフトクリームを…。
soft cream

森田療法が教えてくれるもの

2012年05月21日

金環日食に特別の関心もなく、夜中のバケツをひっくり返したような土砂降りに一瞬目覚め、そのまま睡魔に襲われて…。
今日はとてもいい本を紹介したいと思います。神経症(赤面恐怖、対人恐怖、心気症、心身症、強迫性障害など)の方には、また、人から言われた言葉などがずーっと頭の中に残ってしまう方などに、おすすめの森田療法の本です。

学生時代に森田療法のことを話題にしたら、友人が「あの、怪しいやつ〜?」と言ったことをおぼえています。たぶん、「どこかに入院させられて、ご奉仕活動(掃除や家事)をさせられる療法」とでも思ったのでしょう。よく知れば全く違うし、フロイトと同時期の精神科医、森田正馬によって創始された、日本が誇るべき療法だと思います。
森田療法は日本人の世界観・自然観にしっくりくるものです。この療法のなかで、「自分本位」から「ものごと本位」になりなさい、ということが繰り返し言われています。例えば、人から言われたことにくよくよ繰り返し悩んでいるとしたら、その思いを流しながら(無理に消そうとしない)、目の前の仕事に集中してみる。会議でも、資料作成でも、お皿洗いでも、掃除機がけでも、何にでも工夫しながらやることが大事。あらゆる精神疾患は天災には勝てない、といいますが、今、いきなり地震が起きたとしたら、悩みや問題などはそのときはどこかへ行ってしまいます。まあ、天災は避けられようのないものですが、お皿洗いも天災も目の前の出来事なのです。
神経症は「自分の主観」にとらわれている症状なので、「ものごと本位」になれるとかなり楽に生きることができるようになります。もちろん森田療法の概念はこの限りではありません。また森田正馬自身による著書は言葉遣いが古く難解なのですが、この本はかみ砕いて実生活に役立つように教えてくれています。
どくだみのはな

ナラティヴセラピー

2012年05月20日

暖かい一日でしたね。
ちょっと前から流行のセラピーにナラティヴセラピーというのがあります。ナラティヴとは「語り」のことで、「語りセラピー」ってじゃあ一体今までのセラピーと何が違うの?という疑問が当然湧きますが、このセラピーの背景にある思想が今までと異なること、「語り」には「story(物語)」が関係してくることなどが、大きな違いです。理論が大変難しいのでここでは詳細は省きます。
クライアントが自分の悩みや問題と思っていることを語るとき、そこにはおのずとstoryがあるわけです。このstoryで定番なのが、「家庭に問題があって自分はACになってしまった」というものです。このstoryはナラティヴセラピー的に見ると、「優勢なストーリー」であって、何が優勢なのかというと、クライアントのなかで優勢な物語であることのほかに、この時代のなかでも優勢な物語あるということです。優勢=絶対というのでも、優勢=真というのでもありません。
「家庭に問題があって自分はACになってしまった」というストーリーも、「家庭に問題はあったかもしれないけれど、自分はいま対人関係が苦手かもしれないけれど、自分はこれこれが好きで自信がある」というストーリーや、「今までよく生き抜いてきた。辛いけれど、問題に向きあう力が自分にはあるな。」という別のストーリーに書き換えられるのです。こういうのを代替ストーリーといい、これは数限りなく存在し、簡単に言えばこの代替ストーリーを紡いでいこうとするのが、ナラティヴセラピーです。
「あの人は機能不全家族の被害に遭って気の毒だ」というのは、その時代のドミナント(優勢な)ストーリーに過ぎません。代替ストーリーは無数にあるわけです。
今日ナラティヴセラピーについて想起したのは、最近町内会の回覧板に挟んである、70-80才代の人たちが綴る「(昔の町の)思い出話」が好きでよく読んでいるからでした。
自分が今住んでいる地域の、大正時代の暮らしぶりや、その上の世代(明治や江戸時代の人も含まれますよね)のことなど。今は過疎地だと思っているところが昔は商いの盛んな村だったこと、今何の変哲もない小道が昔は〇〇銀座だったことなど、100年ちょっと前と今で随分町の様子が違っています。町の構造にしてからが絶対的なストーリーというのはないわけです。当たり前のようでいて、とても面白いことだと思いませんか?
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temple's garden

主観的な幸福感

2012年05月19日

人生の最期をどうむかえるか、という番組(クローズアップ現代、NHK)をとても興味深く観ました。
かれこれ6年間高齢者施設で非常勤職員をした経験があり、高齢者のQOL (Quality of life, 人生の質、生活の質)について、また要介護者の周辺の人々(配偶者や家族)のQOL について、以前から関心を抱いていたからでした。思うところはたくさんあるのですが、ブログという性質上、個人的な体験はここでは控えます。
番組の中で、日本老年医学会の今年度の立場表明で、延命治療が患者本人の尊厳を損なう場合や苦痛を増進する場合、「延命措置を選択しない、また延命措置を途中でやめる選択肢の考慮も必要」という文言が採択されたと伝えていました。何が新しいかというと、「途中でやめる選択の考慮」ということが盛り込まれたことです。
高齢者の終末期の医療およびケアに関する日本老年医学会の立場表明(2012)によれば、『立場表明においてQOLの高い状態とは、主観的な幸福感や満足感が高く、身体的に快適な(苦痛が少ない)状態とする』とありました。
私はもっと心理カウンセリングや心理療法が、高年齢層や終末を迎えつつある世代にとっても身近な存在になればいいなという思いがあります。主観的な幸福感と満足感を高めるにあたって、心理学はどのように貢献できるでしょうか…、つらつらそんなことを考えます。
ねこのて

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