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ブログ 心's LOOM

神田界隈

2012年06月17日

今日も一日が終わりました。
本日のブログは嵐ファンから逃れるために手抜きをしますね。
なんでもドームで嵐のコンサートなのだとか。今朝は来るときから、水道橋駅が同じような恰好の女の子たちばかりでとても混雑していました。
嵐の顔も名前も知らないのですが(ジャニーズのグループということは一応わかる)、駅を利用する身としては困りものです。素早く移動しないと、人の波に、若い熱気に呑まれてしまいます。しかも夕方の部もあるらしいので早めに退散です。
10月完成の東京駅の改築工事もたけなわといったところですが、水道橋駅もなんとかしてほしい。なんであんなに古くて狭いのでしょう。
さて、今日の画像は、神田の古い建造物、神田教会です。1928年に建てられた、ロマネスク様式とルネッサンス様式を併せ持つカトリック教会だそうです。きれいだなと思いながらいつも白山通りから眺めています。
神田教会
しかし…、こうすると…、
闇の中の神田教会
高い尖塔はないものの、幻想的なゴシック様式 という感じがしないでもありません。

禁止のモティーフ

2012年06月16日

空はどんより鼠色でしとしと雨。雨音はショパンの調べ?
明日からは雨に加えて25度以上になるようなので留意しないといけませんね。この時期の食べものにも注意しましょう。
さて、自己愛のつづきは後日に譲ることにして、ある一つのことをずっと頭の片隅で考えていました。
それは、前々日のブログで取り上げた、『鶴の恩返し』の話です。
(この「見るなの禁止」については精神分析医の北山修先生の著書に面白いものがありました。イザナミとイザナギの神話などが取り上げられています。)
一羽の鶴は、与兵衛(多分こんな名前だったような。よひょう?)に命を助けられ、一人の美しい女「つう」となって男の前に現れました。そして恩を返すために、「戸を開けてはならぬ」といって、毎晩自分の羽で美しい反物を織り上げていました。(あらすじの些末は諸説あり。)
一方、先日観た中世ドイツが舞台の19世紀オペラ『ローエングリン』は、「名前や出自を聞いてはいけない」と言ったのは騎士の方で、恩を負っていたのは姫君でした。
同じような「禁止」をモティーフにした話なのに、日本の昔話は、禁を破った者にそもそも負い目はない。むしろ、相手の方が恩を負っている。与兵衛が見てしまうのも人情として無理はない。障子の向こうで一体何が行われているのか好奇心があったにせよ、日ごとに痩せ細っていくつうを心配してもいたのですから。つうの恩返しも誠に痛々しい。何もそこまで…。
一方、ドイツ楽劇の方は、姫君はニ重の裏切りをしました。一つは名誉を回復してもらった恩を忘れたこと、もう一つは禁を破ったこと。姫君は、自分の疑惑や不安を解消させるために、聞いてしまったのです。自己中心的というか、自己愛的というか、自我がしっかりとありますね。
似たモティーフの話でも、東西で登場人物の心性がこうも違うのが面白いなと思いました。
雨

自己愛

2012年06月15日

外は暖かいはずなのに、室内は寒く感じられ、また夜も思いのほか涼しい日が続きます。6月が終われば2012年も半分過ぎたということ。光陰矢のごとし、ですね。光は日(太陽)、陰は月のことだとか、初めて知りました。
来週の日曜日は『父の日』ですね。
今は、小此木啓吾著(1981)『自己愛人間』を読んでいる最中で、そのなかに「第二次世界大戦後、私たちは自我理想としての父を失った」というくだりがありました。
どういうことかというと、自我理想というのは「私はこうなりたい、こういう人間でありたいというアイデンティティー」のことで、それは国や社会、思想、宗教といった高次なものと深く関わりがあるものだといいます。
戦時中正しいと信じてきたことが、戦後否定されたり塗り替えられたりして、人々は大きな混乱のなかで生きてきました。それは、絶対的なもの、確固たるものが失われた時代でした。
先日、電車での個人的な体験をここに書いたのですが、それに関する面白い指摘が同著にありました。
電車の中で人に席を譲るとき…
(ア)「さあ、体の不自由な人がいるので、席を譲ってあげよう」と、ヒューマニティの発露から席を譲ろうとする。
(イ)「あっ、席を譲らなきゃ。(さもないと、誰かに怒られるのではないか…)」という感じで席を譲る。
さあ、あなたはどちらのタイプでしょう。(ア)?
私はもしや(イ)?そう思いたくないのだけれど…。
(ア)は「自我理想」の働きによるもので、(イ)は「超自我」の働きによるものだそうです。超自我とは、自我の働きなどを良心や道徳によって抑制するもの、です。感覚的に理解できますね。(ア)は能動的に、(イ)は受動的に、自己愛を満たすやり方だといいます。
ただ、(ア)や(イ)による自己愛は、社会規範(父の掟)を心に取り入れて成り立つものです。今や(1981年当時)、このタイプとは違う、「裸の自己愛」が蔓延している社会だと著者は指摘しています。つづく…。
オールドローズ

聞くなの心理

2012年06月14日

心理劇なので観たほうがよい、という友人の誘いがあり、昨夜は久しぶりに3時間半以上(休憩時間を含め約5時間)のオペラ(楽劇)を観てきました。その名もワーグナーの『ローエングリン』。
中世ドイツのある領地の姫君が弟殺しの嫌疑をかけられていたところへ、姫を救うために白鳥の曳く小船に乗ってやってきた一人の騎士ローエングリン。騎士は姫の嫌疑を晴らし、姫と領地を守ると言うが、一つだけ姫に約束をさせる。それは何があっても騎士の氏素性を聞いてはいけない、と。
古典に多いモチーフで、例えば日本の夕鶴(鶴の恩返し)の「見るなの心理」に似ていますね。夕鶴は本当の姿を見られると、姿を消さなくてはいけない。騎士は名乗ってしまうと、聖なる力が失われる。
決して名を尋ねるな。→ 名を知りたい。しかしそれは恩を仇で返し、約束を破ることになる。→ だか知りたい。どうしても知りたい。誰にも吹聴しないから。私だけ知りたい。どこの誰かわからない人を愛せはしないから。
騎士が「名を聞くな」といったところから、逆説的に「名を聞け、必ずや名を聞け」と言っているように思います。若く、心優しく、純粋無垢ではあるけれど、愚かで、他人のそそのかしに乗りやすい姫はいても立ってもいられなくなり、不安と疑惑を膨らましていく。
騎士の無意識は、本当は聞いてほしかったのでしょうか。どうして?
姫はどこかで、聞いてしまったら相手を傷つけてしまう、失ってしまう、ということに気付いているのでしょうか?無意識は失うことをわかっていて聞いたのか?
騎士も姫も最初から軽々しく愛を誓うところなども、若さゆえの愚かさのようにも見受けられました。
騎士と姫の悲恋は、ある一つのものを蘇らせます。夕鶴だとこの場合、どうなったでしょうか?
休憩中の劇場
↑ 休憩時間はお酒と腹ごしらえ。

歴史上の女性

2012年06月13日

今日は映画話。
つい先日、『血の伯爵夫人』(2009, 独・仏)という映画を観ました。『エリザベス』(1998, 英)のようなものを期待していたら、エリザベスが100ならこちらは20?というくらい、全く感情移入できませんでした。
どちらも歴史上存在した人物です。血の伯爵夫人はハンガリーのエリーザベト・バートリのことで16世紀後半の人。エリザベス1世も確かほぼ同じくらいじゃなかったかと思います。少し前だったかな…。
そのタイトル通り、ご存じの方も多いと思いますが、エリーザベトは美と若さを保つために、処女の血を求めて残虐な殺戮を繰り返したと言われています。伝説か史実かはわかりませんが…。(これがただの伝説なら、なんという名誉毀損でしょう!)映画ではその辺の性倒錯的なところはあまり描いておらず、ある年下の若者(青年)との恋愛が発端で、時の経過による美貌の衰えを恐れて純潔で若い血を求めていったことになっていますが、恋もその狂気も随分中途半端な描き方でした。
今、自己愛についての本を読んでおり、そのなかに「自己愛の人は、事実とは異なる自己の幻想のなかに生きる。自分のシナリオどおりに話が進まないと傷つく」とありました。自己愛は誰にとっても必要なものなのですが、これは病的な自己愛の話です。エリーザベトが処女の血を自分の頬に塗りたくり、鏡に映った顔を恍惚として見入る様子は、たとえ幻想でも、偽りでも、彼女にとっては真実なのでしょうね。
ちなみにこの映画を観るのなら、池田理代子のベルばら最終巻だかにこの話がありましたよね。こちらのほうが、凄みがあってずっと震え上がります。
のいばら

manner

2012年06月12日

難しくて、よく迷うこと。
その一つが、電車の中で席を譲るタイミングです。
家が遠いので朝も夕も並んで席を確保します。大概、本を読むか、ipodを聴くか、うとうとするかして車中を過ごします。今朝も同じ。うとうとしながら、鞄の上には本、耳にはイヤホン。ほとんど外界をシャットアウトしていますね。
でもなぜか、停車駅毎にボーッと目が醒めて、顔は上げずとも膝の前方を眺めてしまう。すると…。今朝は杖を持ったご婦人が斜め前に乗ってきた。あっと思って声をかけたら、次の駅で降りるのでいいとおっしゃった。そこでまた席に座り、うつらうつら…。イヤホンから流れる音声の向こうで、前にいたカップルの男性が、女性に「大丈夫?」と言っている。「??」っと思って見上げると、女性のバッグには妊婦さんのバッジがつけてありました。
きまりが悪く用意をして席を譲ったら、女性は感じよく「ありがとう」と。一方ご主人の方は終始無言でちょっと恐かった…。
最近、続けざまにこのような場面に遭遇しています。言い分けではないのだけれど、出産年齢が上昇しているのか、お腹が目立たないと妊婦さんかどうかがわからない。ふくよかな人なのかなと思えば、バッグの目立たないところにバッジが付いている。そばには伴侶と思わしき人がいるのですが、ほとんど無言でムスーっとしているし。そりゃあ、「なんでお前ら、席を譲らないんだ」と思いますよね。あー、いっそのこと外国みたいに「席を譲って」と起こしてくれればやりやすいのにな。
震災や非常事態の時に、「日本人は、スーパーなどできちんと順番に並んで買い物をする。暴動が起きたりしないのが不思議だ」ということが外国メディアによって度々報道されていました。私は電車の中の席のことを思うと、このことが脳裏をよぎります。いついかなるときも整列する習慣は日本人の美徳なのかもしれないけれど、大人しい性質も関係しているのかもしれないと。
自分にも何らかのハンディがあって、寝ている人を起こして自己主張できるかと言われればそれもできないだろうし…。うーーん、難しい。まあ、早くても遅くてもその都度気付いたときに譲るようにしようと思った今日の朝でした。合掌。
花瓶の紫陽花
↑ 壁の傷は気になさらぬよう…。

休日の駄文より

2012年06月11日

前置きはちょっと?とても?くだらない話。本日はなんとなく気分がいいのです。なんとなく、というよりもとても気分がいいのです。
というのは、とある外国の俳優さん(この人は私と同じくらいの歳、年下だけど)が、12歳年下のキュートな、言い換えるとちんけ(?!)な女優さんと破局していたことがわかったからです。
わずか数ヶ月で。にんまり…。
しかも女優さんの方は既に別の熱々のボーイフレンドがいる…。やっぱり…。
どうせ別世界の人なので、何を思うのも、どう想うのも自由。とっても好みの俳優さんなので、我ながら悪意を感じた、幸福な一日なのでした。
閑話休題。
一昨日掲載した文献について、説明をしていませんでしたので補足しておきます。この本は、「神経質」の各症状に即した具体的な考え方や治療法を説明しているのではなく、森田正馬の伝記のようなものとして読むと大変面白いと思いました。そのなかには勿論、いろいろな概念(こう言ってよいのやら?)の紹介が含まれているのですが、森田正馬の「人となり」がわかり、それはそのまま私たちの「生」を勇気づけてくれる気がします。なんでも、桁外れの記録魔(ええっ、むつみごとの回数も?一体何のために…)だったとは、一種病的でさえありますが、なーんだ、これでいいんだなと感じました。
大概、高名な先生方の個人史がちりばめられたエッセイ風な文章を読むと、自分とはあまりにかけ離れた世界で「ふーーん」というくらいの感想しかもたないことが多いのですが、この違いは森田正馬先生の個性から来るのでしょうか。あるいはただ単に私の個人的な事情からくるのでしょうか…。
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どくだみ
↑ 幾何学模様的魅力のどくだみ。

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