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ブログ 心's LOOM

書店巡り

2012年06月20日

昨夜の嵐は各地に大きな爪痕を残していったようですね。
皆さんはいかがでしたか?

駅に降りたら大雨、大風が吹きつけており、駅の軒先に暮らすツバメたちもジッ…と巣の中にいるようでした。親鳥が1羽だけ、巣の横で見張っていましたっけ。今朝出かけてくるときはどの巣も無事だったので、案外丈夫に出来ているんだなーと感心しました。樹木の枝は簡単に折れてしまうのに。

戸外では比較的一晩中サイレンが鳴っていたので、ひやひやして眠りが浅かった…。注意を喚起するためのものかなと思っていたら、市中で被害があったことを今朝知りました。神保町付近でも街路樹が倒れたらしく、早速直していました。

さて、本日はお昼に時間が出来たので、神保町すずらん通りにある『東京堂書店』(東京堂書店)へ行ってきました。老舗の本屋さんで今春リニューアルしたばかり。3階までの各フロアにはカフェがあって利用できます。何でもロンドンの書店を参考にしたのだとか。

うーーん、そう思えばそうであるし…、といった具合。壁にはモノクロの写真が飾られていたり、おしゃれで落ち着きますが、心理関連の本はあまりありませんでした。間違って既に持っている本を買ってしまったし。今度はお茶でもしに行ってみるとするか…。

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レモンドリンク
↑ この飲み物はよほどの肺活量がないと(涙)。作った人は飲んだのかな?




台風の日

2012年06月19日

蒸し暑いです。
台風が気になって気象庁のホームページを見たら、なんとも見にくく何に注意をしたらいいかよくわかりませんでした。地震速報は結構使えるんですけれどね。こういうときはやはり一目瞭然のTVにはかないません。

ニュースサイトの予報を見たら、今夜から関東地方は大雨・暴風域に入るとのこと、また電車が動かなくなると大変なので本日はノロノロせずに早めに帰ることにします。あ-、イヤだな。大雨も暴風も、家が古いのでミシミシ…鳴るのです。どうぞ吹き飛ばされませんように…。

どうぞ皆さまも、情報に留意しつつ、お気を付けくださいね。

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研数学館
↑ 神田の古い建造物第二弾、研数学館(元専門学校)です。確か1929年くらいのもの。端の部分は「和民」になっており、メインは日大の校舎だと思います。



日本的罪悪感

2012年06月18日

本格的に蒸し暑くなってきましたね。

今日はゆるゆるした日を過ごしており、再び、北山修著(2010)『最後の授業 心をみる人たちへ』の「第二章「私」の精神分析 罪悪感をめぐって」を読んでいました。というのはここに、日本国誕生の神話「イザナギ(男の神)・イザナミ(女の神)神話」と「鶴女房」の分析が載っているからです。神話や昔話を探るのは、日本人の心を知るうえでとても大切だと思います。

イザナミも鶴女房も、「出産で変わり果てた姿の女と、それを見て恐れおののき、逃げるか立ち尽くすしかできずに、女を傷つけてしまったことで罪悪感に苦しむ男の話」だということです。
姿を見てはならぬ、と言ったイザナミも鶴女房も、男が覗いて見たら、イザナミは腐乱状態、つうは血まみれの鶴の状態だった。イザナミは出産が元で亡くなっており、鶴の機織りの場面は人間の出産シーンの比喩だそうです。

見たくないもの(危険な出産だけでなく、生きていく上で沢山ありますよね。例えば両親の不和なども)を見てしまい、罪悪感に苦しむときに人はどうやって罪悪感を解消するのか?

1. タブー視する…長らく女性の生理や出産は不浄なものとして禁忌されていました。
2. 動物化する…女を鶴に置き換える。異類婚姻説話にする。
3. 物語に付け加えをする…「あれは昔助けた鶴だったのだ…」と。
4. 美化する…醜女となってイザナギを追いかけるイザナミは別として、鶴のようにはかなく美しく消え去る存在にする。

異類婚姻説話はキリスト教文化圏にもたくさんあり、例えば、この間取り上げた「ローエングリン」(ローエングリンは神の使い)とか、「美女と野獣」、「かえるの王様」などがあります。
しかし、日本の異類婚姻説話では、動物は潔く逃げてしまう。一方西洋では、動物は逃げず、愛の力でめでたく人に変わるんだそうです。言われてみれば、神の使いローエングリンは姿を消しますが、残された白鳥は王子(姫の弟)に戻るのです。

日本の物語はハッピーエンドでは終わらない。潔くはかなく消える美学がそこに見いだされる。
けれども誰かが自虐的に消えてしまうと、残された者に罪悪感が残り続けることになる。
ではどうしたらいいのか。

逃げず(これは比喩)にとどまること、だそうな。女(あるいは母)は逃げず、過分に愛情を与えたりもせず、男(あるいは子)も罪悪感から逃げずに詫びること。鶴女房の場合、つう(鶴)は逃げず、自己犠牲をやめ(反物を多くは作らず)、居続けることが大事なようです。
ちょっと難しい話ですが、著者の言わんとしていることは伝わってきますね。

きせつのはな


















神田界隈

2012年06月17日

今日も一日が終わりました。
本日のブログは嵐ファンから逃れるために手抜きをしますね。

なんでもドームで嵐のコンサートなのだとか。今朝は来るときから、水道橋駅が同じような恰好の女の子たちばかりでとても混雑していました。
嵐の顔も名前も知らないのですが(ジャニーズのグループということは一応わかる)、駅を利用する身としては困りものです。素早く移動しないと、人の波に、若い熱気に呑まれてしまいます。しかも夕方の部もあるらしいので早めに退散です。

10月完成の東京駅の改築工事もたけなわといったところですが、水道橋駅もなんとかしてほしい。なんであんなに古くて狭いのでしょう。
さて、今日の画像は、神田の古い建造物、神田教会です。1928年に建てられた、ロマネスク様式とルネッサンス様式を併せ持つカトリック教会だそうです。きれいだなと思いながらいつも白山通りから眺めています。

神田教会

しかし…、こうすると…、

闇の中の神田教会
高い尖塔はないものの、幻想的なゴシック様式 という感じがしないでもありません。






禁止のモティーフ

2012年06月16日

空はどんより鼠色でしとしと雨。雨音はショパンの調べ?
明日からは雨に加えて25度以上になるようなので留意しないといけませんね。この時期の食べものにも注意しましょう。

さて、自己愛のつづきは後日に譲ることにして、ある一つのことをずっと頭の片隅で考えていました。
それは、前々日のブログで取り上げた、『鶴の恩返し』の話です。
(この「見るなの禁止」については精神分析医の北山修先生の著書に面白いものがありました。イザナミとイザナギの神話などが取り上げられています。)

一羽の鶴は、与兵衛(多分こんな名前だったような。よひょう?)に命を助けられ、一人の美しい女「つう」となって男の前に現れました。そして恩を返すために、「戸を開けてはならぬ」といって、毎晩自分の羽で美しい反物を織り上げていました。(あらすじの些末は諸説あり。)

一方、先日観た中世ドイツが舞台の19世紀オペラ『ローエングリン』は、「名前や出自を聞いてはいけない」と言ったのは騎士の方で、恩を負っていたのは姫君でした。

同じような「禁止」をモティーフにした話なのに、日本の昔話は、禁を破った者にそもそも負い目はない。むしろ、相手の方が恩を負っている。与兵衛が見てしまうのも人情として無理はない。障子の向こうで一体何が行われているのか好奇心があったにせよ、日ごとに痩せ細っていくつうを心配してもいたのですから。つうの恩返しも誠に痛々しい。何もそこまで…。

一方、ドイツ楽劇の方は、姫君はニ重の裏切りをしました。一つは名誉を回復してもらった恩を忘れたこと、もう一つは禁を破ったこと。姫君は、自分の疑惑や不安を解消させるために、聞いてしまったのです。自己中心的というか、自己愛的というか、自我がしっかりとありますね。

似たモティーフの話でも、東西で登場人物の心性がこうも違うのが面白いなと思いました。

雨





自己愛

2012年06月15日

外は暖かいはずなのに、室内は寒く感じられ、また夜も思いのほか涼しい日が続きます。6月が終われば2012年も半分過ぎたということ。光陰矢のごとし、ですね。光は日(太陽)、陰は月のことだとか、初めて知りました。

来週の日曜日は『父の日』ですね。
今は、小此木啓吾著(1981)『自己愛人間』を読んでいる最中で、そのなかに「第二次世界大戦後、私たちは自我理想としての父を失った」というくだりがありました。

どういうことかというと、自我理想というのは「私はこうなりたい、こういう人間でありたいというアイデンティティー」のことで、それは国や社会、思想、宗教といった高次なものと深く関わりがあるものだといいます。

戦時中正しいと信じてきたことが、戦後否定されたり塗り替えられたりして、人々は大きな混乱のなかで生きてきました。それは、絶対的なもの、確固たるものが失われた時代でした。

先日、電車での個人的な体験をここに書いたのですが、それに関する面白い指摘が同著にありました。

電車の中で人に席を譲るとき…
(ア)「さあ、体の不自由な人がいるので、席を譲ってあげよう」と、ヒューマニティの発露から席を譲ろうとする。
(イ)「あっ、席を譲らなきゃ。(さもないと、誰かに怒られるのではないか…)」という感じで席を譲る。

さあ、あなたはどちらのタイプでしょう。(ア)?
私はもしや(イ)?そう思いたくないのだけれど…。

(ア)は「自我理想」の働きによるもので、(イ)は「超自我」の働きによるものだそうです。超自我とは、自我の働きなどを良心や道徳によって抑制するもの、です。感覚的に理解できますね。(ア)は能動的に、(イ)は受動的に、自己愛を満たすやり方だといいます。

ただ、(ア)や(イ)による自己愛は、社会規範(父の掟)を心に取り入れて成り立つものです。今や(1981年当時)、このタイプとは違う、「裸の自己愛」が蔓延している社会だと著者は指摘しています。つづく…。

オールドローズ





聞くなの心理

2012年06月14日

心理劇なので観たほうがよい、という友人の誘いがあり、昨夜は久しぶりに3時間半以上(休憩時間を含め約5時間)のオペラ(楽劇)を観てきました。その名もワーグナーの『ローエングリン』。

中世ドイツのある領地の姫君が弟殺しの嫌疑をかけられていたところへ、姫を救うために白鳥の曳く小船に乗ってやってきた一人の騎士ローエングリン。騎士は姫の嫌疑を晴らし、姫と領地を守ると言うが、一つだけ姫に約束をさせる。それは何があっても騎士の氏素性を聞いてはいけない、と。

古典に多いモチーフで、例えば日本の夕鶴(鶴の恩返し)の「見るなの心理」に似ていますね。夕鶴は本当の姿を見られると、姿を消さなくてはいけない。騎士は名乗ってしまうと、聖なる力が失われる。

決して名を尋ねるな。→ 名を知りたい。しかしそれは恩を仇で返し、約束を破ることになる。→ だか知りたい。どうしても知りたい。誰にも吹聴しないから。私だけ知りたい。どこの誰かわからない人を愛せはしないから。

騎士が「名を聞くな」といったところから、逆説的に「名を聞け、必ずや名を聞け」と言っているように思います。若く、心優しく、純粋無垢ではあるけれど、愚かで、他人のそそのかしに乗りやすい姫はいても立ってもいられなくなり、不安と疑惑を膨らましていく。
騎士の無意識は、本当は聞いてほしかったのでしょうか。どうして?
姫はどこかで、聞いてしまったら相手を傷つけてしまう、失ってしまう、ということに気付いているのでしょうか?無意識は失うことをわかっていて聞いたのか?

騎士も姫も最初から軽々しく愛を誓うところなども、若さゆえの愚かさのようにも見受けられました。
騎士と姫の悲恋は、ある一つのものを蘇らせます。夕鶴だとこの場合、どうなったでしょうか?

休憩中の劇場
↑ 休憩時間はお酒と腹ごしらえ。









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