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日本的マゾヒズム2
2012年06月06日
肌寒い日ですね。
日課である、新聞のウェブサイトに目を通していたら、トップページの上の方にAKB総選挙速報が出ていました。別に載せるのはいいんですけどね。こんなに上に載せる必要があるのでしょうか。他に伝えるべきことは沢山あるだろうに…。
しかし、どうしてこんなに甲乙付け難い(顔の分別が難しい)アイドル集団がもてはやされるのか、そこを分析してくれたらきっと面白いでしょうね。しかも、なぜあれほど幼稚園のお遊戯会のような「集団」で歌わなくてはいけないのか。
やはり日本人は、終生、集団と集団の和を求めているのでしょうか。
昨日のブログでお伝えした、自己主張を抑え相手を許すという「日本的マゾヒズム」について、以下の特徴があるといいます(小此木,1982)。


(↑ 「日本人の阿闍世コンプレックス」の画像がなかったので、同テーマの別本です。)
1 自発的罪悪感に訴える
例えばAさんがBさんの過ちを取り立てて指摘しなかったり許してあげると、Bさんの側に「すまないな」という罪悪感が生じます。同時に、「Aさんはどうせ許してくれる」という甘えもBさんの無意識に生じます。
2 交換の原理を無視する
Aさんの「許す」行為には、表面的には give and take の精神はありません。因みに見返りを要求したら「利己的」などと非難されます。Aさんの見返りを求めない行為は、Bさんに「借り」の気持ちを生じさせます。
3 謝恩を要求しない
これは1や2と同じものと思いますが、「罪悪感」「借り」「恩」で繋がっているのが、日本の社会なのだといいます。またこういった日本的な社会は、人と人の繋がりが容易に切れない社会だといいます。個々の契約に基づいた、合理的な結びつきを重視する(契約がなくなれば人間関係は解消される)欧米型社会と異なる点です。
著者は日本人のこうした特徴を欧米人と比較して劣ったものとしてみるのではなく、戦後の「個人」や「個の自立」を追求してきた教育(タテマエ)と、「日本的マゾヒズム」(ホンネ)のギャップに気付いてそれらを統合し、新しい自我を確立していくことが大切だと説いています。
1982年から早30年。何が変わって何が変わっていないのか…。
日本的マゾヒズム
2012年06月05日
手元に届いた『ジェーン・エア』のページを繰り、映画を反芻しながら、東西の女性像の違いのようなものをあれやこれや考えていました。
5月31日付ブログでご紹介した『日本人の阿闍世コンプレックス』小此木啓吾(著)のなかに、こういったくだりがあります。米国人女子学生の発言で、「ボーイフレンドが約束を反故にしようものなら、感情を露わにしても自分への敬意を払わせる」というものです。(このあたり、私は境界性パーソナリティ傾向の人はこういった自己主張の素質があるように思います。)
著者は、欧米人にとっての嫉妬の感情は、所有権の侵害に対する正当な権利の主張であるのに対し、日本人にとっての嫉妬は、「慎みのない、はしたない」感情なのだと指摘しています。
確かに、これは男女限らずに多いと思うのですが、例えば配偶者や恋人など親密な間柄の人が自分の誕生日を忘れていたとしたら、一体どのぐらいの人が抗議するでしょうか?本当は寂しいのに、「別に気にしていないよ」という人はまだまだ多いと思います。「誕生日なんて何でもないし…」とか、「彼(彼女)は忙しいから…」という発言もよく耳にします。
こういった日本人の傾向を、著者は「日本的マゾヒズム」と呼び、この日本的マゾヒズムが人や組織、社会、政治を動かす大きな原動力、支配力となっているとのことです。
ここがポイントなのですが、この女性的かつ日本的マゾヒズムは、「ただやられっぱなし」という訳ではありません。自己主張を押し殺している深層には、「こんなにしているのだから、いつか相手は振り向いてくれる」という期待を孕んでいるといいます。そしてこの「密かな期待」が、相手に「罪悪感」と「甘え」と「恩」の気持ちを生じさせるのです。この日本的マゾヒズムの特徴については大変面白いので、またの機会にご説明しますね。
初夏の対策
2012年06月04日
6月ともなると湿度が増し、空気がまとわりつくようになってきました。今年の夏も、いやこれからずっとと言うべきなのでしょうが、なるべく電力に頼らずにいかに夏を快適に過ごすかが問われそうなので、今日はいろいろ調達に行ってきました。
まあ、例年なのですが、押し入れの中の除湿剤、防虫剤、アリ撃退剤、キンカン、蚊よけシール、首に巻く保冷剤など、色々購入しました。何でも衣服に一噴きすると冷却効果のある薬剤なども売っていましたが、昨今は実にいろいろあるのですね。
なんだかこのように書いていて、あれれ、強迫的?神経症的?と思わなくもありませんが…、蚊、ムカデ、アリ、ダンゴムシ、ヤスデetc.がとりわけ多いところに住んでいるので仕方ありません。さて、いかに健やかに夏を乗り切るか…。後は鰻(?)なども必需品ですが、今年は品不足で高級品化しているのでありつけそうにありません。鰻重一つ3,000円なら、どうせ量も少ないだろうし、別のものがいいなと。
節電節電と言っても、体力のあまりない方などは、冷房など極端に我慢しませんように。何事もほどほどが大切ですし、人によって体や環境は違います。
↑ 紫陽花は一服の清涼剤ですね。これは最初、ほんの小さな鉢植えだったんです。
それでは、今日はお休みなのでこの辺で…。今夜はファーストフードに、X-MENでも観る予定です。たまにはだらりと。
作品の中の女性たち
2012年06月03日
何年ぶりでしょうか。
昨夜は映画館に行きました。数年ぶり?約10年ぶり?の日比谷シネシャンテ、です。もうこの頃は、スピーカーを良くすれば家で十分楽しめるのですっかり映画館から遠ざかっていました。しかし…。違う。風景が全く違う。人の顔も違う。女優さんたちの顔の皺も陰影もリアルで(だからこそナチュラルで美しく)、安心しました。
鑑賞したのは「ジェーン・エア」。古典もの、文芸ものは、衣装やインテリア、エクステリアなどの時代考証を観るのが好きなのと、何より捨ててはおけない内容だったので公開初日にネットで予約をして行ってきました。そして今日は早速アマゾンでブロンテ姉妹の本を注文しました。
「ジェーン・エア」は19世紀半ばのビクトリア調時代に出版され、物議を醸した作品とのことです。主人公のジェーンは別に器量よしのヒロインではなく、質素で、自由と自立を求め、しかしながら階級の異なる男性に自分から求婚するという、当時では考えられないほど大胆で、真の意味で自分を大切にできる女性です。
今回の映画作品では、「アリス・イン・ワンダーランド」の若いヒロインが演じていました。抑制して落ちついていてしっかりと芯のある女性像でしたが、今の時代ならばややもすると「頑な、暗い」などと評価されるのではないか、と思いました。「女は愛嬌」というのとは、全く異なります。この世の中、もう少しこういう女性が増えてもいいんじゃないか、と思います。
まあ、とにかく、大ロマンスなので身も心もゾワゾワし、すっかりボーッとしながら帰りの電車に揺られていました。後は本が届くことを心待ちにしています。
支援の形
2012年06月02日
昨夜は神田のとある居酒屋さんにでかけました。
昨年の3月12日、長野県の栄村でも震度6強の地震があったことが知られています。東日本大震災の翌日に起きたこの地震の被害も凄まじく、村はまだ復興の途上にあります。私が訪れたお店とは、「ふるさと酒場さかえむら」という、栄村の食材や郷土料理で復興の応援をしようというコンセプトのお店です。都内の大学と村の協力で運営されています。
さてお料理ですが、村で採れる山菜料理がメインで、たいへん素朴でえぐみと苦みのある大人向けの料理です。あけびの蔓とか、行者ニンニクは初めて食べました。この他、村のお米で炊いたおにぎりや根曲がり竹のお味噌汁などもあり、このお味噌汁は具だくさんでとても美味しかった!食事は全般的にボリュームが期待できないのが残念なところですが…。
こういった復興支援のスタイルのお店が、今後増えていくといいなと思います。
↑ 食べかけなのでセピア色に…。
就職
2012年06月01日
昨日の続きはまた後日に…。
6月に入りましたね。季節も徐々に暑くなってきました。
間もなくやってくる梅雨の季節。
恵みの雨ではあるけれど、気分は鬱陶しくもあります。
この間、家では既に2匹のむかでが発生し、それはそれは大変でした。どう大変なのかといえば、高いところでちょろちょろ動くむかでに殺虫剤をスプレーしたところ、当然ですか落ちてきて、そこに猫がすっ飛んでいき…。あとはご想像にお任せします。
スプレーを少し浴びてしまった馬鹿な子は、しばらくクシュンクシュンしていました。
さて、今日読んでいた記事に、新卒の有効求人倍率はやや回復しているものの、大学生の就職活動が依然厳しいとありました。就職活動の早期化と長期化が見られ、大学では3年生,4年生が就活に苦労しているとのことです。勿論、就職難は大学生ばかりでなく、更に若い人たちや中高年層の間でも大変深刻な問題です。就職難が理由で亡くなった10-20代の若者は、平成22年で150人だと伝えられていました。そのうち男性の割合は78.0%だそうです。
就職活動に苦しんでいる人たちに向かって軽々しくは言えませんが、仕事で人の価値は決まりません。仕事はその人の能力ではなく、育った環境や時代に左右されるものだと私は考えています。森田療法の森田正馬の言葉に、「職に貴賤はあらず、人に貴賤あり」というものがありました。若い人にはピンとこない言葉かもしれませんが、正にそうだと今では思います。
再教育や再就職、再婚、再活用etc.など、人生のあらゆる局面で再起可能な国であってほしいものです。
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↑ 目薬をさしました。少々ムっとしています。
罪悪感
2012年05月31日
この分野の人なら知っている古典中の古典、小此木啓吾著(1983)『日本人の阿闍世(あじゃせ)コンプレックス』中公文庫、をただいま通勤時に読んでいます。
阿闍世コンプレックスという言葉、それほど流布していない気がします。教わるのも専らフロイトのエディプスコンプレックスばかり。(ご存じかと思いますが、エディプスコンプレックスとは、母の愛を得ようとして父の存在を消したいという欲求と、その衝動のために父の処罰を恐れる、という無意識の葛藤をいいます。)
阿闍世物語は仏教の経典に出てくる王子様(確か)の話。
あるインドの妃が王である夫の愛を失いたくないばかりに、男の子を授かりたいと願う。「ある山の仙人が3年後に亡くなると息子を授かることができる」というお告げがあったが、妃は待てずに仙人を殺してしまう。すると男子を授かる。妃は複雑な心情だ。何しろ、殺した仙人=我が子、なのだから。長じてこの出生の秘密を知った阿闍世(息子)は、母への恨みに駆られ母への殺意を抱く。ところが恐ろしい病に罹ったとき、一生懸命に看病をしてくれたのが母であった。母が恨み辛みの阿闍世を許し、献身的に看病したことで、阿闍世は母の温情に罪悪感を覚え、母の事情を知り、許すという物語。
つまりエディプスコンプレックスが父殺しだとしたら、阿闍世コンプレックスは母殺しがテーマで、母性社会である日本人の心性はこちらなのだという指摘でした。
ただし、阿闍世物語が出てくる経典は幾つかあるらしく、内容が違うものもあるのだとか。一つには、あるかどで幽閉された王(夫、阿闍世の父)を救うために毎晩自分の体に蜜を塗って会いに行く妃(母)のことを知り、阿闍世が父を殺したいと思ったという説もあります。これはいわば、エディプスコンプレックスと同じですね。
一体どちらなのか気になるところですが、古澤平作(阿闍世コンプレックスの提唱者)という精神科医が日本人の心性を仏典に求めたところに新鮮さがあるのだということです。西洋の論理で東洋人の全てが語れるはずはないからです。
阿闍世物語の真偽の程はともかく、2つの罪悪感についての考えが大変面白いと思いました。
1つめは、エディプスコンプレックスに見出されるように、父の「処罰」への罪悪感。
2つめは、阿闍世コンプレックスに見出されるように、母の「許し、受容」への罪悪感。
簡単にたとえると、子どもが万引きをしたとしましょう。そのとき、警察に捕まったり両親や先生に叱られるのではないかという罪悪感が生まれます。一方、万引きをしたとして、「今回に限り見逃してあげましょう」と母が言ったとする。すると、許されたことに対する罪悪感と甘えが生じるといいます。実は日本社会は、後者の「許しと罪悪感」が日本人の心の底、社会の底に厳然と横たわっているといいます。面白い話しでしょう?つづく…。
↑ セザンヌ展より