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心理 東京
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ブログ 心's LOOM
ナラティヴセラピー
2012年05月20日
暖かい一日でしたね。
ちょっと前から流行のセラピーにナラティヴセラピーというのがあります。ナラティヴとは「語り」のことで、「語りセラピー」ってじゃあ一体今までのセラピーと何が違うの?という疑問が当然湧きますが、このセラピーの背景にある思想が今までと異なること、「語り」には「story(物語)」が関係してくることなどが、大きな違いです。理論が大変難しいのでここでは詳細は省きます。
クライアントが自分の悩みや問題と思っていることを語るとき、そこにはおのずとstoryがあるわけです。このstoryで定番なのが、「家庭に問題があって自分はACになってしまった」というものです。このstoryはナラティヴセラピー的に見ると、「優勢なストーリー」であって、何が優勢なのかというと、クライアントのなかで優勢な物語であることのほかに、この時代のなかでも優勢な物語あるということです。優勢=絶対というのでも、優勢=真というのでもありません。
「家庭に問題があって自分はACになってしまった」というストーリーも、「家庭に問題はあったかもしれないけれど、自分はいま対人関係が苦手かもしれないけれど、自分はこれこれが好きで自信がある」というストーリーや、「今までよく生き抜いてきた。辛いけれど、問題に向きあう力が自分にはあるな。」という別のストーリーに書き換えられるのです。こういうのを代替ストーリーといい、これは数限りなく存在し、簡単に言えばこの代替ストーリーを紡いでいこうとするのが、ナラティヴセラピーです。
「あの人は機能不全家族の被害に遭って気の毒だ」というのは、その時代のドミナント(優勢な)ストーリーに過ぎません。代替ストーリーは無数にあるわけです。
今日ナラティヴセラピーについて想起したのは、最近町内会の回覧板に挟んである、70-80才代の人たちが綴る「(昔の町の)思い出話」が好きでよく読んでいるからでした。
自分が今住んでいる地域の、大正時代の暮らしぶりや、その上の世代(明治や江戸時代の人も含まれますよね)のことなど。今は過疎地だと思っているところが昔は商いの盛んな村だったこと、今何の変哲もない小道が昔は〇〇銀座だったことなど、100年ちょっと前と今で随分町の様子が違っています。町の構造にしてからが絶対的なストーリーというのはないわけです。当たり前のようでいて、とても面白いことだと思いませんか?
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主観的な幸福感
2012年05月19日
人生の最期をどうむかえるか、という番組(クローズアップ現代、NHK)をとても興味深く観ました。
かれこれ6年間高齢者施設で非常勤職員をした経験があり、高齢者のQOL (Quality of life, 人生の質、生活の質)について、また要介護者の周辺の人々(配偶者や家族)のQOL について、以前から関心を抱いていたからでした。思うところはたくさんあるのですが、ブログという性質上、個人的な体験はここでは控えます。
番組の中で、日本老年医学会の今年度の立場表明で、延命治療が患者本人の尊厳を損なう場合や苦痛を増進する場合、「延命措置を選択しない、また延命措置を途中でやめる選択肢の考慮も必要」という文言が採択されたと伝えていました。何が新しいかというと、「途中でやめる選択の考慮」ということが盛り込まれたことです。
高齢者の終末期の医療およびケアに関する日本老年医学会の立場表明(2012)によれば、『立場表明においてQOLの高い状態とは、主観的な幸福感や満足感が高く、身体的に快適な(苦痛が少ない)状態とする』とありました。
私はもっと心理カウンセリングや心理療法が、高年齢層や終末を迎えつつある世代にとっても身近な存在になればいいなという思いがあります。主観的な幸福感と満足感を高めるにあたって、心理学はどのように貢献できるでしょうか…、つらつらそんなことを考えます。
自然観
2012年05月18日
本日は面接中に、いきなり激しい雨が降ってきました。そうかと思えば、お昼頃はところどころ灰色の雲が見えつつもほぼ晴天に。雨で一気に空気が冷えたのか、外は肌寒くて困りました。
夜中も土砂降りの雨と雷鳴で目を覚まし、心細くなりました。山の谷あいに住んでいるので、最悪の場合土砂崩れが恐いのです。まあ工事も成されているしそんなことは起きないでしょうけれど、「想定外」ということもありえます…。布団の中であれやこれやと考えつつ、いつしかまた眠りに入っていましたが…。
今、通勤途中に森田療法(大正時代の精神科医、森田正馬による精神療法)の解説書を読んでいます。森田正馬の思想であり、東洋的な世界観でもある、「世界の主体は自然である。だから、人間は自然に柔順に調和して生きることが大事である」ということが、この頃胸によく響いてきます。
「人は自然の一部」ということは、人間の非力さや無力さのみならず、人は「私(主観)」の世界から解き放たれ、他の人たち(生物たち)と共感し合うことが出来るのだ、という意味でもあると思いました。この本については、近々ご紹介しますね。
と、ここまできたら、たった今、地震がありました…。
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強迫的?
2012年05月17日
業務命令もあり、時間を見つけては↓のような本を読んでいます。
中身はわかりやすくよくできていますが、個人的には、あ〜、ニガテ…。
IT系の本などは全くもって興味が湧かず、読むのも見るのも苦痛、やっつけるように赤ペンをガシガシ引きながら目を通しています。
毎朝目を通す新聞社のサイトなどを開いても、インターネットや情報通信技術のカタカナ用語やアルファベットの略字が大氾濫していますが、一体どのくらいの人が理解しているのでしょうか。クラウド・コンピューティングと言われても、わかります?(調べたから何とかわかったけどサ…。)
メディア・リテラシー(情報を評価・識別・処理・発信する能力)について云々言われていますが、例えばインターネット上の情報やその情報を提供する技術について、私たちは本当に「識別」できているのだろうか。ブログやツイッター、フェイスブックなどある程度使える能力はあるとしても、もしかしたらお膳立てされたものに易々と使われているのかもしれないな…、などとあれやこれや考えてしまいます。
情報通信に限ったメディア・リテラシーでは、未来も世代間で格差が生じると思います。ますます開きが大きくなる、経済格差も関係するでしょう。生きることを前提にしたら、私も自分が80才になったときがとても恐ろしい。変化が激しいこの世界で、どこまでついていけるのだろうか…。それとも、そんなもんなくても大丈夫とアナログな生活に満足できているのだろうか…。
まあ今のうちは、知らないではすまされないのでぼちぼち勉強するしかなさそうですね。
動物写真集
2012年05月16日
今日は暖かい穏やかな一日でした。外出していた人は夏日和でとても暑かったようですね。
お昼休みに前職場の同僚が遊びに来てくれ、こんなプレゼントを持ってきてくれました。
手作りのステキなラッピング↓
開けてみると…。
Steve Bloom (南アフリカ出身、イギリスの写真家)による 『 my favourite animal families 』(2010) という動物のファミリーを写した写真集でした。私は鳥類を含めて動物がとても好きなのですが、動物写真家と一口に言っても、写真家の個性が作品に如実に現れるんですね。例えば山岳写真などはどれも同じように見えてしまうのですが、これなどもやはり鑑賞能力のある人が見れば違うのでしょう。
Bloom 氏の作品は、南アフリカ出身ということもあるのか大変躍動的でど迫力のあるものが多く、この人は一体どこからどうやって撮っているんだろう?と驚愕します。彼はある時は鳥で、ある時は水生動物なんじゃないかと…。もらった写真集はファミリーを扱っているので穏やかなものが多いのですが、動物の子どもたちのしぐさの可愛らしさに思わず微笑んでしまいます。動物も人間も子どものしぐさを眺めていると、本当に幸せな気持になりますね。
掌の中
2012年05月15日
五月晴れは案外少なく、今日はまた雨ですね。
昨日の画像、あれは何?という質問があったのですが、あれはヤモリの赤ちゃんです。しばしば出現するのですが、家にいると碌なことが起きないので(ギャング共が興奮してしまうので)、ガラスの容器に確保して外に出してあげました。とても可愛いので放す前にパチリと。目玉も可愛いけれど、特にヤツデのような手足がたまりません。しかも、「キュッ…」って聞こえるか聞こえないくらいに小さく小さく鳴くんですよね。それとも、掴んだときに苦しかっただけなのかな。
それはそうと、最近お恥ずかしながら、「射倖心(射幸心)を煽る」という言葉を知りました。皆さんは、ご存じでしたか?例のコンプガチャのニュースによって、です。
射倖心とは、「思いがけない利益や幸運を望む心」を意味するのですよね。大人がパチンコやギャンブルなどにはまってしまうのは、本人の依存的な問題もあることながら、この射倖心が煽られるからでもあるわけです。「今度こそは」「次こそは」「ここまできたからには」という思いがどんどん増していくのは、そのように巧みに誘導されてもいるからでしょう。「射倖心を煽っている」側にこそ、大きな利益があるからやっている、ということを忘れないでいたいものです。
母と娘
2012年05月14日
昨夜は遅ればせながら、『ブラックスワン』(2010)を観ました。勝手に推測してニ重人格の話かと思っていたのですが、偶然にも「母の日」にぴったりの母娘関係が主軸となっている映画でした。
観た方も多いと思うのですが、主人公は「白鳥の湖」の主役の座を射止め、プリマとなった女の子。あの女の子は、一体何歳の設定だったのでしょうか。演ずるナタリー・ポートマンが30歳くらいなので、ついついそのぐらいの歳を想定してしまうのですが、いつもピンクのコートを着ていたり、部屋には大小のぬいぐるみが沢山飾ってあったり、寝入るときはオルゴールを母が鳴らしたりと、それはまあ、お人形のように扱われていました。でも、ただのお人形じゃなく、いつも悲痛な面持ちの極上の「いい子」。
母も気持ち悪い。とっくにバレエ界から遠ざかっているのに、いつまでもバレエダンサーのような髪型と体型の持ち主。自分の価値観のなかでしか娘に生きることを許さず、自分の夢を娘に重ねて期待している。
主人公は黒鳥を踊るにはセクシュアリティが足りないと振り付け師から言われ続け、次第に妄想と幻覚が昂じ、母の世界に抵抗していく。悲劇として幕が閉じられているのか、そうではないのか…。
バレエ界もなかなか残酷な世界ですね。プリマはたった一人だし、代役は一団のなかでNo.2ではあっても主役が降りない限りは日陰の身。また、主役の座を追われた前プリマ演ずるウィノーナ・ライダーは、実生活でも問題ありでだいぶ映画界から遠ざかっており、何とも痛々しい出演でした。監督の狙いなんですかね?
しかし、こういった母娘関係、バレエや音楽、スポーツの世界で top を目指す親子たちに限られた特殊な世界というのではなく、親子関係の典型像の一つではないでしょうか。「女性であれば、この亜流に属する」、と私は思います。