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心理 東京
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ブログ 心's LOOM
就職
2012年06月01日
昨日の続きはまた後日に…。
6月に入りましたね。季節も徐々に暑くなってきました。
間もなくやってくる梅雨の季節。
恵みの雨ではあるけれど、気分は鬱陶しくもあります。
この間、家では既に2匹のむかでが発生し、それはそれは大変でした。どう大変なのかといえば、高いところでちょろちょろ動くむかでに殺虫剤をスプレーしたところ、当然ですか落ちてきて、そこに猫がすっ飛んでいき…。あとはご想像にお任せします。
スプレーを少し浴びてしまった馬鹿な子は、しばらくクシュンクシュンしていました。
さて、今日読んでいた記事に、新卒の有効求人倍率はやや回復しているものの、大学生の就職活動が依然厳しいとありました。就職活動の早期化と長期化が見られ、大学では3年生,4年生が就活に苦労しているとのことです。勿論、就職難は大学生ばかりでなく、更に若い人たちや中高年層の間でも大変深刻な問題です。就職難が理由で亡くなった10-20代の若者は、平成22年で150人だと伝えられていました。そのうち男性の割合は78.0%だそうです。
就職活動に苦しんでいる人たちに向かって軽々しくは言えませんが、仕事で人の価値は決まりません。仕事はその人の能力ではなく、育った環境や時代に左右されるものだと私は考えています。森田療法の森田正馬の言葉に、「職に貴賤はあらず、人に貴賤あり」というものがありました。若い人にはピンとこない言葉かもしれませんが、正にそうだと今では思います。
再教育や再就職、再婚、再活用etc.など、人生のあらゆる局面で再起可能な国であってほしいものです。
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↑ 目薬をさしました。少々ムっとしています。
罪悪感
2012年05月31日
この分野の人なら知っている古典中の古典、小此木啓吾著(1983)『日本人の阿闍世(あじゃせ)コンプレックス』中公文庫、をただいま通勤時に読んでいます。
阿闍世コンプレックスという言葉、それほど流布していない気がします。教わるのも専らフロイトのエディプスコンプレックスばかり。(ご存じかと思いますが、エディプスコンプレックスとは、母の愛を得ようとして父の存在を消したいという欲求と、その衝動のために父の処罰を恐れる、という無意識の葛藤をいいます。)
阿闍世物語は仏教の経典に出てくる王子様(確か)の話。
あるインドの妃が王である夫の愛を失いたくないばかりに、男の子を授かりたいと願う。「ある山の仙人が3年後に亡くなると息子を授かることができる」というお告げがあったが、妃は待てずに仙人を殺してしまう。すると男子を授かる。妃は複雑な心情だ。何しろ、殺した仙人=我が子、なのだから。長じてこの出生の秘密を知った阿闍世(息子)は、母への恨みに駆られ母への殺意を抱く。ところが恐ろしい病に罹ったとき、一生懸命に看病をしてくれたのが母であった。母が恨み辛みの阿闍世を許し、献身的に看病したことで、阿闍世は母の温情に罪悪感を覚え、母の事情を知り、許すという物語。
つまりエディプスコンプレックスが父殺しだとしたら、阿闍世コンプレックスは母殺しがテーマで、母性社会である日本人の心性はこちらなのだという指摘でした。
ただし、阿闍世物語が出てくる経典は幾つかあるらしく、内容が違うものもあるのだとか。一つには、あるかどで幽閉された王(夫、阿闍世の父)を救うために毎晩自分の体に蜜を塗って会いに行く妃(母)のことを知り、阿闍世が父を殺したいと思ったという説もあります。これはいわば、エディプスコンプレックスと同じですね。
一体どちらなのか気になるところですが、古澤平作(阿闍世コンプレックスの提唱者)という精神科医が日本人の心性を仏典に求めたところに新鮮さがあるのだということです。西洋の論理で東洋人の全てが語れるはずはないからです。
阿闍世物語の真偽の程はともかく、2つの罪悪感についての考えが大変面白いと思いました。
1つめは、エディプスコンプレックスに見出されるように、父の「処罰」への罪悪感。
2つめは、阿闍世コンプレックスに見出されるように、母の「許し、受容」への罪悪感。
簡単にたとえると、子どもが万引きをしたとしましょう。そのとき、警察に捕まったり両親や先生に叱られるのではないかという罪悪感が生まれます。一方、万引きをしたとして、「今回に限り見逃してあげましょう」と母が言ったとする。すると、許されたことに対する罪悪感と甘えが生じるといいます。実は日本社会は、後者の「許しと罪悪感」が日本人の心の底、社会の底に厳然と横たわっているといいます。面白い話しでしょう?つづく…。
↑ セザンヌ展より
また明日…
2012年05月30日
今日はサイトプログラムのメンテナンスのため、長めのブログ更新はお休みします。
ここのところ日中暖かくても、午後になると外気が急にヒンヤリ感じることがありますね。雲行きが怪しくないかどうか、積乱雲がないかどうか、特に山寄りの方はどうぞ注意をしてください。先日の地元でも隣町では土砂降りだったのに、うちのほうは晴れているという(なのに、空気は高原のように冷たい)、奇妙なお天気がありました。一体どうなっているのやら。
言葉いろいろ
2012年05月29日
あるコラムに、「むずかしくない言葉を使って、いかに内容豊かに伝えるか」というようなことが書かれていました。
その人のコラムは、いつもとても平明な文章と言葉(漢字もほとんどなく平仮名ばかり)で書かれており、幅広い読者層にまっすぐ訴える力と、ものごとの見方の発見と楽しさに溢れ、読むのを日課としています。なにより勉強になります。
しかし…、頭の片隅で、違和感を覚えないわけでもない…。
いたずらに難しい言葉や専門用語を弄するのは大問題ですが(例えばコンピュータの取説とか法律用語など)、世の中なんでも「らくなほうに、かんたんなほうに」流れていったら一体どうなるのだろう…、という心配がなくもありません。漢字も消え、語彙も減少したら、人の感性や情緒、表現などはどう影響されていくのでしょうか。言葉が絶対というわけではないにしろ、ないからこそ、言葉によって人の心が開拓される面もあると思うのです。この辺り、上手く伝えられないけれど。
卑近な例をあげるならば、昔の難しい、でも歴史の香りを感じさせる地名がどんどん消えていって、ひらがなやカタカナの安易な地名ばかりになるのは、とても寂しい気がするのです。彼(コラムニスト)が言っているのはそういうことじゃないのかもしれないけれど…、どうなのでしょう。
manga
2012年05月28日
日本がマンガやアニメ大国であることはもはや世界の常識となっています。マンガが日本文化の代表のように扱われるのは少々苦く思うのですが、確かに素晴らしい作品や面白い作品はたくさんあるし技術は高いと思います。
昨夜「COOL JAPAN ! 」という番組を観ていて、なるほど、世界から見てどんなふうにマンガ大国の日本が見えるのか、新しく知ったことが色々ありました。
フランスでは日本のマンガが手に入るが、イギリスやイタリアなど他のヨーロッパではあまり手に入らないので、個人輸入かフランスまで行くのだとか。また、マンガやアニメはあくまでも子どものためのもので、大人が好きだとわかると「オタク」と思われてしまうということも言っていました。外国人でも結構人の目を気にするのですね。
日本には高校の部活動や同好会活動にマンガ部があるのに、諸外国では教育的に認められないだろう、という発言も多数ありました。
しかし…、マンガを読んで日本語を覚えたり日本に親しみを感じて来日し、日本でマンガ生活を楽しんでいる外国人たちが多いことも事実です。どんなところが好きなのかと言えば、少女マンガや歴史マンガ、学園もの、など多数のジャンルがあることや、背景や景色の描写などが細かくてとてもきれいなのだとか。
漫画家にもよりますが、タッチが繊細でリアリティーがあるし、丁寧に描かれていますよね。私は北斎とか広重などの浮世絵なんかを観ると、とても漫画的、アニメ的と感じるのですが、いかがでしょう…。
↑ ひととおり読みます♪
家(いえ)
2012年05月27日
最近、ある昔々の事件に関する記事を読んでいて感じたこと。
それは自分が生まれる遙か以前の事件のことなのですが、当時、容疑者とされる人の実家の墓が村人によってひどく荒らされ、墓石もろとも外に打ち棄てられた、というくだりがありました。村八分は昔はよくあったのかもしれませんが、それを読んでぞっとしました。比較的若いときから漠然と感じていたことの一つに、加害者の家族の在り方の国による違い、というものがあります。
例えば、アメリカのスラム街出身の容疑者もしくは加害者の母親などがメディアのインタビューに応じるとき、堂々と顔を見せ、顔には化粧、爪にはきれいにマニキュアなどが施されていたりします。「息子(娘、夫etc.)はこれこれしかじかだ…」と比較的淡々と話し、別段アメリカの母親に違和感を覚えないし、変な悲壮感がないのがいいと思っていました。同じことを日本の母親がやったら、きっと非難ごうごうなのでしょう。日本の場合、親などは顔は半分くらい隠すか、ぼかされ、「ご迷惑をお掛けした…」とひたすらうなだれて謝罪することが求められているようです。そうでもしないとメディアも世論も大変なことになるのは目に見えています。日本はまだまだ「個人」ではなく、「家単位」であり、そこは変わっていないのかもしれません。
↑ 夜の神保町交差点
『ヤコブへの手紙』
2012年05月26日
先日『ヤコブへの手紙』(2009,フィンランド)という、録画してあった映画を観てみました。疲れているとついついお気楽なハリウッドものを観てストレス発散をするのですが、やはりたまには良質の作品に接しないと、精神が枯渇していくような気がします。

この映画は、刑期を終えたばかりの中年女性と全盲で高齢の牧師の話です。登場人物数名、主な撮影場所は牧師館と教会の、とても規模の小さい作品です。
行く当てのない女性は、牧師の代わりに手紙を読み、代筆する仕事を頼まれて牧師館に住むことになります。牧師館には、人々からの相談や悩みを打ち明けた手紙が、毎日のように届けられます。老いて全盲の牧師は「神が自分に使わせてくれた仕事」(この仕事があるから神の役に立っている)と思って、手紙を何よりも心待ちにしています。
ところが…。その女性は終始仏頂面で、投げやりな態度。手紙を井戸に捨ててしまったり、「家事はやらない」と言ってのけたり。途中で牧師館を離れようとしたり。牧師はそれでも、いつも変わりなく穏やかに彼女に接します。
やがて、どういうわけか手紙が来なくなり、牧師が見る間に落ち込んでいくと、彼女の心に変化が起き始め…。後は観てのお楽しみ。
牧師さんへの手紙と返信というのは、それはメール(手紙)カウンセリングの原型なのだなと思いました。書くという作業は、私は実はとても大事なことなのではないかと考えています。出来事や思いを、自分の手を動かして素直に紙にのせていくことは、自分と悩み(問題)の間に少しずつ距離を置くことが出来る作業だと思うのです。
今はもはや電子メールの時代ですが、手紙を出す手間暇と、届くまでにかかる日数も、大事な要素のような気がします。