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ブログ 心's LOOM

新たな世界

2012年05月23日

昨夜は何気なくTVをつけたら、「左手のピアニスト 舘野泉」という番組が放映されていました。

脳出血の後遺症で右手で弾くことができなくなり、2年間のブランクを経て、左手だけでメロディーと和音を奏でる奏法を編みだし(親指と人差し指でメロディ-、残りの指で和音だそうです)、新たな境地を今なお開拓している男性ピアニストのお話でした。

右手が使えないということはピアニストにとって致命的なハンディだと普通は思いますが、それが私の先入見ということがよくわかりました。

左手から生まれる曲は…、目を閉じて聞こえてくる曲は、どれも心に深く響いてくるものばかりでした。もっとも、舘野氏によれば、「左手だけで音楽を奏でているのではなく、全身で弾いている。音楽は呼吸みたいなもの」とおっしゃっていたのが印象的でした。正にそのような「息吹」を感じさせる演奏です。

左手が右手を見事にカバーしているのではなく、左手独自の演奏がピアノの新しい世界を創っているのだと感じました。もしかしたら、全てとはいいませんが、ハンディと思っているものは案外そうではないのかもしれません。そんなことを考えさせる番組でした。

のばら




雨降りには

2012年05月22日

昨日と打って変わり寒い一日ですね。今日は軽めの話題で、軽く終わります。

昨日は英語の先生から、バラードなどの音楽をもっと聴くように奨められました。「英米圏の人でどんなミュージシャンが好き?」と聞かれ、咄嗟に出てきたのがエリック・クラプトン。

そうしたら、「彼の発音はきれいだよ」と言われ、次は「彼の何の曲が好き?」と問われ、曲名が口から出なかったので「運転している時、BGMで聞いている」と答えたら、「tears in heaven」のサビを歌ってくれました。私の頭に流れていたのは、「I shot the sheriff (保安官を撃っちまった)」だったんですけど…。

来週までの宿題なので、早速休憩時間に「tears in heaven (天国の涙)」をじっくり聴いてみました。歌詞を一度読んでから聴くと、聞き取れます。それにしてもやはりいい歌、です。涙がじんわり…滲んでくる歌です。彼はこの曲を作って息子を喪った悲しみを乗り越えたんですよね。悲しくて力強い歌。

雨の日にはバラードを。
晴れの日にはソフトクリームを…。

soft cream



森田療法が教えてくれるもの

2012年05月21日

金環日食に特別の関心もなく、夜中のバケツをひっくり返したような土砂降りに一瞬目覚め、そのまま睡魔に襲われて…。

今日はとてもいい本を紹介したいと思います。神経症(赤面恐怖、対人恐怖、心気症、心身症、強迫性障害など)の方には、また、人から言われた言葉などがずーっと頭の中に残ってしまう方などに、おすすめの森田療法の本です。


学生時代に森田療法のことを話題にしたら、友人が「あの、怪しいやつ〜?」と言ったことをおぼえています。たぶん、「どこかに入院させられて、ご奉仕活動(掃除や家事)をさせられる療法」とでも思ったのでしょう。よく知れば全く違うし、フロイトと同時期の精神科医、森田正馬によって創始された、日本が誇るべき療法だと思います。

森田療法は日本人の世界観・自然観にしっくりくるものです。この療法のなかで、「自分本位」から「ものごと本位」になりなさい、ということが繰り返し言われています。例えば、人から言われたことにくよくよ繰り返し悩んでいるとしたら、その思いを流しながら(無理に消そうとしない)、目の前の仕事に集中してみる。会議でも、資料作成でも、お皿洗いでも、掃除機がけでも、何にでも工夫しながらやることが大事。あらゆる精神疾患は天災には勝てない、といいますが、今、いきなり地震が起きたとしたら、悩みや問題などはそのときはどこかへ行ってしまいます。まあ、天災は避けられようのないものですが、お皿洗いも天災も目の前の出来事なのです。

神経症は「自分の主観」にとらわれている症状なので、「ものごと本位」になれるとかなり楽に生きることができるようになります。もちろん森田療法の概念はこの限りではありません。また森田正馬自身による著書は言葉遣いが古く難解なのですが、この本はかみ砕いて実生活に役立つように教えてくれています。

どくだみのはな




ナラティヴセラピー

2012年05月20日

暖かい一日でしたね。

ちょっと前から流行のセラピーにナラティヴセラピーというのがあります。ナラティヴとは「語り」のことで、「語りセラピー」ってじゃあ一体今までのセラピーと何が違うの?という疑問が当然湧きますが、このセラピーの背景にある思想が今までと異なること、「語り」には「story(物語)」が関係してくることなどが、大きな違いです。理論が大変難しいのでここでは詳細は省きます。

クライアントが自分の悩みや問題と思っていることを語るとき、そこにはおのずとstoryがあるわけです。このstoryで定番なのが、「家庭に問題があって自分はACになってしまった」というものです。このstoryはナラティヴセラピー的に見ると、「優勢なストーリー」であって、何が優勢なのかというと、クライアントのなかで優勢な物語であることのほかに、この時代のなかでも優勢な物語あるということです。優勢=絶対というのでも、優勢=真というのでもありません。

「家庭に問題があって自分はACになってしまった」というストーリーも、「家庭に問題はあったかもしれないけれど、自分はいま対人関係が苦手かもしれないけれど、自分はこれこれが好きで自信がある」というストーリーや、「今までよく生き抜いてきた。辛いけれど、問題に向きあう力が自分にはあるな。」という別のストーリーに書き換えられるのです。こういうのを代替ストーリーといい、これは数限りなく存在し、簡単に言えばこの代替ストーリーを紡いでいこうとするのが、ナラティヴセラピーです。

「あの人は機能不全家族の被害に遭って気の毒だ」というのは、その時代のドミナント(優勢な)ストーリーに過ぎません。代替ストーリーは無数にあるわけです。

今日ナラティヴセラピーについて想起したのは、最近町内会の回覧板に挟んである、70-80才代の人たちが綴る「(昔の町の)思い出話」が好きでよく読んでいるからでした。

自分が今住んでいる地域の、大正時代の暮らしぶりや、その上の世代(明治や江戸時代の人も含まれますよね)のことなど。今は過疎地だと思っているところが昔は商いの盛んな村だったこと、今何の変哲もない小道が昔は〇〇銀座だったことなど、100年ちょっと前と今で随分町の様子が違っています。町の構造にしてからが絶対的なストーリーというのはないわけです。当たり前のようでいて、とても面白いことだと思いませんか?
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temple's garden





主観的な幸福感

2012年05月19日

人生の最期をどうむかえるか、という番組(クローズアップ現代、NHK)をとても興味深く観ました。

かれこれ6年間高齢者施設で非常勤職員をした経験があり、高齢者のQOL (Quality of life, 人生の質、生活の質)について、また要介護者の周辺の人々(配偶者や家族)のQOL について、以前から関心を抱いていたからでした。思うところはたくさんあるのですが、ブログという性質上、個人的な体験はここでは控えます。

番組の中で、日本老年医学会の今年度の立場表明で、延命治療が患者本人の尊厳を損なう場合や苦痛を増進する場合、「延命措置を選択しない、また延命措置を途中でやめる選択肢の考慮も必要」という文言が採択されたと伝えていました。何が新しいかというと、「途中でやめる選択の考慮」ということが盛り込まれたことです。

高齢者の終末期の医療およびケアに関する日本老年医学会の立場表明(2012)によれば、『立場表明においてQOLの高い状態とは、主観的な幸福感や満足感が高く、身体的に快適な(苦痛が少ない)状態とする』とありました。

私はもっと心理カウンセリングや心理療法が、高年齢層や終末を迎えつつある世代にとっても身近な存在になればいいなという思いがあります。主観的な幸福感と満足感を高めるにあたって、心理学はどのように貢献できるでしょうか…、つらつらそんなことを考えます。

ねこのて



自然観

2012年05月18日

本日は面接中に、いきなり激しい雨が降ってきました。そうかと思えば、お昼頃はところどころ灰色の雲が見えつつもほぼ晴天に。雨で一気に空気が冷えたのか、外は肌寒くて困りました。

夜中も土砂降りの雨と雷鳴で目を覚まし、心細くなりました。山の谷あいに住んでいるので、最悪の場合土砂崩れが恐いのです。まあ工事も成されているしそんなことは起きないでしょうけれど、「想定外」ということもありえます…。布団の中であれやこれやと考えつつ、いつしかまた眠りに入っていましたが…。

今、通勤途中に森田療法(大正時代の精神科医、森田正馬による精神療法)の解説書を読んでいます。森田正馬の思想であり、東洋的な世界観でもある、「世界の主体は自然である。だから、人間は自然に柔順に調和して生きることが大事である」ということが、この頃胸によく響いてきます。

「人は自然の一部」ということは、人間の非力さや無力さのみならず、人は「私(主観)」の世界から解き放たれ、他の人たち(生物たち)と共感し合うことが出来るのだ、という意味でもあると思いました。この本については、近々ご紹介しますね。

と、ここまできたら、たった今、地震がありました…。


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こねこ





強迫的?

2012年05月17日

業務命令もあり、時間を見つけては↓のような本を読んでいます。
中身はわかりやすくよくできていますが、個人的には、あ〜、ニガテ…。

a manual

IT系の本などは全くもって興味が湧かず、読むのも見るのも苦痛、やっつけるように赤ペンをガシガシ引きながら目を通しています。

毎朝目を通す新聞社のサイトなどを開いても、インターネットや情報通信技術のカタカナ用語やアルファベットの略字が大氾濫していますが、一体どのくらいの人が理解しているのでしょうか。クラウド・コンピューティングと言われても、わかります?(調べたから何とかわかったけどサ…。) 

メディア・リテラシー(情報を評価・識別・処理・発信する能力)について云々言われていますが、例えばインターネット上の情報やその情報を提供する技術について、私たちは本当に「識別」できているのだろうか。ブログやツイッター、フェイスブックなどある程度使える能力はあるとしても、もしかしたらお膳立てされたものに易々と使われているのかもしれないな…、などとあれやこれや考えてしまいます。

情報通信に限ったメディア・リテラシーでは、未来も世代間で格差が生じると思います。ますます開きが大きくなる、経済格差も関係するでしょう。生きることを前提にしたら、私も自分が80才になったときがとても恐ろしい。変化が激しいこの世界で、どこまでついていけるのだろうか…。それとも、そんなもんなくても大丈夫とアナログな生活に満足できているのだろうか…。

まあ今のうちは、知らないではすまされないのでぼちぼち勉強するしかなさそうですね。



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